大西洋戦線
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詳細は「米英戦争の大西洋戦線」を参照 大西洋においても海戦が行われていた。アメリカ海軍はイギリス海軍に較べ、戦闘艦の数も質も圧倒的に劣勢ながら、戦争前半は善戦した。しかしヨーロッパ大陸でのナポレオン戦争の帰趨が対仏大同盟側に有利になると、イギリスは海軍力をアメリカに向けたため、後半はその活動を封じ込められた。この戦争で英艦を破った米艦コンスティテューション(同艦は2015年現在も現役である)は、三笠やヴィクトリーと並んで、世界三大艦の1つとして有名である。また私掠船も盛んに活動した。 海軍に輸送されたイギリス陸軍は敵首都の直接攻略のためアメリカ東海岸に上陸し、1814年8月にはメリーランド州においてブラーデンスバーグの戦いに勝利し、次いでインディアン戦争をするアメリカは侵略者であるとしてワシントン焼き討ちを行いホワイトハウスを破壊した。アメリカの民衆は衝撃を受け、ヨーロッパ大陸の指導者らはこれを非難した。 大統領府のある首都ワシントンD.C.が陥落したのはこの一度のみである。ちなみに戦後、大統領府を改修する際に、このときの焼け焦げを隠すために真っ白なペンキを塗ったことから、大統領官邸はホワイトハウスと呼ばれるようになったという有名なエピソードがある。 またこの戦争で最も熾烈な戦いといわれるのが1814年9月13日の「マックヘンリー要塞の戦い」である。アメリカ兵は独立戦争時に作られたメリーランド州ボルチモアのマックヘンリー要塞(フォートマクヘンリー)に立てこもって戦った。当時のボルチモアはアメリカ私掠船の根拠地であった。それに対しチェサピーク湾に侵入したイギリス軍は間断ない艦砲射撃とコングリーヴ・ロケット弾による攻撃を加えた。このロケットによる攻撃は米国国歌の歌詞に“And the Rockets' red glare, the Bombs bursting in air,”と残されている。イギリスのロケットの精度の悪さとアメリカ軍の大砲の射程制限によって、どちらの側も損害はほとんどなかったが、砦は25時間に及ぶ激戦に耐えた。 この戦いの際に攻撃側のイギリス軍艦に抑留されていたフランシス・スコット・キーは、停戦後も砦で風になびく特製のアメリカの星条旗を海上から見てそれを称える詩を詠み、後に曲が与えられて現在のアメリカ国歌「星条旗」となった(後述)。この戦いを表す歌詞として“Gave proof through the night that our Flag was still there.”とある。また本戦争以降、州が増えるなどしてアメリカ合衆国の国旗が新しくなる際は、まずフォートマクヘンリーに掲揚されるのが伝統となった。国旗の星の数が49個になったとき、また50個になったとき、最初にこの砦で翻って、以後、正式使用となった。それらは砦の施設内に保存されている。
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大西洋戦線
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「ワスプ (CV-7)」の記事における「大西洋戦線」の解説
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