大西洋戦線とは? わかりやすく解説

大西洋戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 21:18 UTC 版)

米英戦争」の記事における「大西洋戦線」の解説

詳細は「米英戦争の大西洋戦線」を参照 大西洋においても海戦が行われていた。アメリカ海軍イギリス海軍較べ戦闘艦の数も質も圧倒的に劣勢ながら、戦争前半は善戦した。しかしヨーロッパ大陸でのナポレオン戦争帰趨対仏大同盟側に有利になると、イギリス海軍力アメリカ向けたため、後半その活動封じ込められた。この戦争で英艦を破った米艦コンスティテューション(同艦は2015年現在現役である)は、三笠ヴィクトリー並んで世界三大艦の1つとして有名である。また私掠船盛んに活動した海軍輸送されイギリス陸軍は敵首都直接攻略のためアメリカ東海岸上陸し1814年8月にはメリーランド州においてブラーデンスバーグの戦い勝利し次いでインディアン戦争をするアメリカ侵略者であるとしてワシントン焼き討ち行いホワイトハウス破壊したアメリカ民衆衝撃を受け、ヨーロッパ大陸指導者らはこれを非難した大統領府のある首都ワシントンD.C.陥落したのはこの一度のみである。ちなみに戦後大統領府改修する際に、このときの焼け焦げを隠すために真っ白なペンキ塗ったことから、大統領官邸ホワイトハウス呼ばれるようになったという有名なエピソードがある。 またこの戦争で最も熾烈な戦いといわれるのが1814年9月13日の「マックヘンリー要塞戦い」である。アメリカ兵独立戦争時に作られメリーランド州ボルチモアマックヘンリー要塞フォートマクヘンリー)に立てこもって戦った当時ボルチモアアメリカ私掠船根拠地であった。それに対しチェサピーク湾侵入したイギリス軍間断ない艦砲射撃コングリーヴ・ロケット弾による攻撃加えた。このロケットによる攻撃米国国歌歌詞に“And the Rockets' red glare, the Bombs bursting in air,”と残されている。イギリスロケット精度悪さアメリカ軍大砲射程制限によって、どちらの側も損害はほとんどなかったが、砦は25時間に及ぶ激戦に耐えた。 この戦いの際に攻撃側イギリス軍艦に抑留されていたフランシス・スコット・キーは、停戦後も砦で風になびく特製アメリカ星条旗海上から見てそれを称える詩を詠み、後に曲が与えられ現在のアメリカ国歌星条旗となった後述)。この戦いを表す歌詞として“Gave proof through the night that our Flag was still there.”とある。また本戦以降、州が増えるなどしてアメリカ合衆国の国旗新しくなる際は、まずフォートマクヘンリー掲揚されるの伝統となった国旗の星の数が49になったとき、また50になったとき、最初にこの砦で翻って以後、正式使用となった。それらは砦の施設内に保存されている。

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大西洋戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 06:29 UTC 版)

ワスプ (CV-7)」の記事における「大西洋戦線」の解説

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※この「大西洋戦線」の解説は、「ワスプ (CV-7)」の解説の一部です。
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