司馬越と対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:18 UTC 版)
司馬潘滔(はんとう)や尚書劉望らは共謀し、苟晞を誣告して陥れようとした。苟晞はこれに怒り、上表して潘滔らを処刑するよう求め、また司馬越の従事中郎劉洽(りゅうこう)を自らの軍司とするよう請うたが、司馬越はいずれも拒絶した。苟晞はこれを受けて「司馬元超(司馬越の字)は皇室の藩屏の宰相でありながら公平を欠き、天下を混乱させている。苟道将(苟晞の字)がどうして不義の者に仕えようか。韓信は衣食の恵に耐えられずに婦人によって殺害された。今こそ国賊を誅殺し、王室を奉るのだ。そうすれば桓公や文公といえども遠い存在とはならんぞ!」と言い放ち、諸州に檄を飛ばして司馬越の罪を並べ立てた。懐帝もまた司馬越の専横を憎んでいたので、詔して苟晞が主導となって諸州郡と協力して各地の反乱鎮圧に当たるよう告げた。苟晞はまた諸々の有力な将軍や州郡に文書を送り、結束して逆賊を討つよう告げた。 310年10月、漢の王弥と石勒が洛陽を攻撃すると、懐帝は苟晞に討伐を命じた。同時期、漢の行安東将軍曹嶷(そうぎょく)が苟純の守る臨淄を包囲した。苟純は城を閉じて堅守すると、曹嶷は包囲を強めてその陣営は数十里に渡って連なった。洛陽に向かっていた苟晞は、これを聞くと軍を転進して救援に向かい、曹嶷の兵士たちはその威名を大いに恐れた。苟晞は兵を繰り出すと曹嶷を幾度も撃破した。 311年1月、曹嶷は残軍を纏めて再び苟晞と争い、苟晞は精鋭で迎え撃ち、両軍は臨淄の郊外で激突した。ちょうどこの時、一陣の大風が巻き起こり塵を巻き上げ、辺りの視界が急激に遮られた。この時にちょうど曹嶷から攻撃を受け、苟晞は敗れた。苟晞は夜中に逃走を図ったが、曹嶷の追撃により多くが降伏した。苟晞は高平まで撤退し、数千人の兵をかき集めて軍を立て直した。 司馬越が石勒討伐を掲げて洛陽を出奔すると、懐帝は苟晞に密詔を与えて司馬越討伐を命じた。苟晞は一度は渋ったが、再び密詔が届けられると遂に討伐を決心した。司馬越は苟晞と懐帝に謀略がある事を疑い、成せい皋こう関かんに騎兵を巡回させて苟晞の使者を捕らえた。これにより詔令や朝書を得たので、その謀略が知れ渡る事となった。司馬越は出征して豫州を押さえ、苟晞討伐を目論んだ。檄を飛ばして苟晞の罪状を述べ、従事中郎楊瑁(ようまい)を兗州に派遣し、徐州刺史裴盾と共に苟晞を攻撃させた。苟晞は機先を制し、騎兵を派遣すると河南尹潘はん滔とうを捕らえた。潘滔は夜中に逃走したが、苟晞はさらに尚書劉曽・侍中程延を捕らえると、これを処刑した。3月、司馬越は憂憤のうちに項城で急死した。苟晞は詔により、大将軍・大都督・青徐兗豫荊揚六州諸軍事に任じられ、二万戸を加増された。さらに、黄こう鉞えつを加えられ、以前の官職は継続とされた。
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