司馬越に協力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/07 14:10 UTC 版)
当時、河間王司馬顒・成都王司馬穎が朝政を専断しており、東海王司馬越らはこれに反発して兵を挙げたので、大規模な内乱に発展していた。 11月、司馬顒配下の張方は恵帝を引き連れて長安への遷都を強行した。その為、司馬顒は恵帝を擁して強大な権力を手にするようになった。 305年8月、司馬顒に味方していた平南将軍・彭城王司馬釈が宛城へ入ると、劉弘はこれを撃破して追放した。 10月、司馬顒は劉弘を傘下に引き入れようと思い、恵帝を介して詔を下し、司馬顒一派の豫州刺史劉喬の後援となり、司馬越一派の劉輿・劉琨兄弟を討つよう命じた。劉弘は劉喬と司馬越に手紙を送り、争いを止めて共に皇室を援けるよう呼びかけたが、二人とも応じなかった。その為、劉弘は恵帝へ上書し「近年、兵禍が相次いでおり、猜疑により群王が争うようになり、皇族に災難が訪れています。今日の忠臣は明日には逆臣となり、互いを糾弾し合っており、このような骨肉の禍は歴史上類を見ません。その結果、辺境の備えは無くなり、中華の蓄えも尽きてしまい、官員は国家を顧みずに小さな利益を貪るようになりました。万が一、四夷が虚に乗じて変事を起こしならば、外に対する備えがない我々は自ら国を夷狄に捧げることになりましょう。司馬越らに詔を発し、双方の猜疑を解消させ、各自の職責を全うさせるべきです。今後、詔書に逆らって兵馬を動かす者は、天下が協力して征伐すべきです」と述べたが、司馬顒は劉喬を信頼していたので、劉弘の上書を無視して司馬越との抗戦を続けた。 劉弘は司馬顒の側近である張方が悪辣である様を見て、司馬顒の敗亡は必至であると確信していたので、司馬越に使者を送って彼の味方となった。 この時、八王の乱と各地方の内乱により天下は大いに乱れていたが、劉弘の統治する江漢だけは良く治まっており、その威光は南方に行き渡った。劉弘は太守・相を任命・解任する度に直筆の手紙を送り、丁寧に親密に接したので、人々は大いに喜び、争って彼の下を訪れるようになり、みな「劉公から1枚の文章を頂くのは、10部の従事が督促するのに勝る」と言ったという。以前の広漢郡太守辛冉は劉弘に荊州で自立するよう勧めたが、劉弘は激怒して辛冉を処断した。
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