司馬越に敗れる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 09:00 UTC 版)
7月、司馬越が司馬顒・張方の打倒を掲げて徐州で挙兵し、東平王司馬楙・王浚・司馬虓らもまたこれに呼応した。恵帝は司馬越の挙兵を聞くと司馬越・司馬楙に正式に官爵を与え、これにより朝廷の官員は長安から離れて司馬越の下に集まるようになった。司馬越は当初、恵帝を洛陽に帰還させた陝県を境に東西で国家を分割統治をする事を提案し、司馬顒はこれに好色を示したが、張方の反対を受けたためこれを拒絶した。また同じ時期、司馬穎の旧将である公師藩が将軍を自称し、司馬穎の復権を掲げて趙・魏(河南河北一帯)で挙兵した。8月、司馬顒は公師藩の挙兵を知ると、司馬穎を鎮軍大将軍・都督河北諸軍事に推挙して兵千人を与え、盧志と共に鄴城へ向かわせた。 司馬顒は司馬越に反発した豫州刺史劉喬の軍を支援したものの、劉喬が敗北すると不安に駆られて再び司馬越との和平を望むようになった。しかし張方が和睦に頑なに反対したので、なかなか決断出来なった。張方と仲の悪かった司馬顒の参軍畢垣は張方が陰謀を企てていると偽りの讒言を行い、繆播と繆胤も張方を斬って天下に謝罪すべきと進言した。司馬顒は張方の側近であった郅輔を招いて事の真偽を確かめようとしたが、郅輔は既に畢垣の手回しを受けておりこれに偽りの肯定を行った。これにより司馬顒は郅輔に命じて張方を抹殺させ、その首を司馬越に送って和解を求めた。しかし司馬越はこれを無視して進軍を継続し、司馬顒は呂朗らを滎陽に駐軍させてこれを阻ませたが、司馬越軍の将軍であった劉琨が張方の首を示すと戦意を喪失して投降した。 こうして洛陽に入った司馬越は、祁弘・宋冑・司馬纂らに鮮卑兵を与えて長安攻略に向かわせ、恵帝奪還を命じた。司馬顒は張方の首と引き換えに司馬越の軍が兵を退く事を期待していたが、司馬越軍は張方が死んだと聞くと、却って先を争って函谷関に入るようになった。司馬顒は張方を殺害した事を後悔し、実行犯の郅輔に責任を求めて処刑した。しかし司馬越軍の進軍を防ぐ事はできず、ついには単身で長安を離れ太白山へと逃走してしまった。こうして5月、長安は司馬越軍の手に落ち、司馬越軍は長安には太弟太保の梁柳を残して、恵帝の身柄を連れ帰った。
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