張昌討伐とは? わかりやすく解説

張昌討伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/07 14:10 UTC 版)

劉弘 (西晋)」の記事における「張昌討伐」の解説

303年蛮族張昌江夏挙兵すると、使持節南蛮校尉荊州刺史任じられ前将軍趙驤らを率いて張昌討伐に向かった方城から出発して宛・新野まで進軍すると、迎え撃って来た賊軍尽く平定した。 同年新野王司馬歆が樊城張昌敗れて殺されると、朝廷劉弘司馬歆後任として鎮南将軍都督荊州諸軍事に任じこれまでの官爵以前通りとした。 6月劉弘南蛮長史陶侃大都護に、参軍蒯恒を義軍督護に、牙門将皮初を都戦帥に任じ襄陽進撃させた。張昌は兵を結集して趙驤が守る宛を包囲し、趙驤軍を撃破した。その為、劉弘は軍を退いて一旦城に駐屯した。その後劉弘陶侃・蒯桓・皮初に兵を与えて竟陵駐屯していた張昌攻撃させると、陶侃らは幾度も張昌破って数万首級挙げた范陽王司馬虓は荊州占領目論んでいたので、劉弘城に退いたのを知ると、長水校尉張奕派遣して荊州に入らせた。劉弘荊州帰還したが、張奕譲ろうとせずに兵を派遣して劉弘進軍拒んだので、劉弘は軍を派遣して張奕撃破し、その首級挙げた。こうして劉弘荊州官府到着すると、張昌はこれを大い恐れて逃亡図り、その兵は尽く降伏した劉弘朝廷上表し、宛城一度失陥した事と上表せずに張奕処断した事を謝罪した朝廷は詔を下し、宛で敗れたのは趙驤の責任であるとし、張奕討ったのも正義行いであるとして罪には問わなかった。後に張昌下雋山に入ると、劉弘は軍を派遣してその討伐に当たり、張昌討ち取ってその配下を皆降伏させた。こうして荊州平定された。

※この「張昌討伐」の解説は、「劉弘 (西晋)」の解説の一部です。
「張昌討伐」を含む「劉弘 (西晋)」の記事については、「劉弘 (西晋)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「張昌討伐」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「張昌討伐」の関連用語

張昌討伐のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



張昌討伐のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの劉弘 (西晋) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS