幽州に出鎮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 07:42 UTC 版)
西晋の重臣王沈の子として生まれたが、母の趙氏は出自が賤しかったので、当初は私生児として扱われて認知されなかった。266年、王沈がこの世を去ると、彼に子がいなかったことから親族により後継ぎに立てられた。こうして父の爵位を継いで博陵公に封じられ、駙馬都尉に任じられた。280年、封国である博陵に赴任した。282年、洛陽に入朝して員外散騎侍郎に任じられた。291年、員外常侍に転任し、やがて越騎校尉・右軍将軍に移った。後に河間郡太守にも任じられたが、郡公は二千石の官位に就いてはならないという規則があったので、東中郎将に移って許昌に出鎮した。 299年12月、恵帝の皇后賈南風らの画策により皇太子司馬遹は許昌の宮殿に幽閉され、300年3月には賈南風の内意を受けた宦官の孫慮により殴殺された。この時、王浚は賈南風の謀略に関与し、殺害の手助けをしたという。その後、寧北将軍・青州刺史に任じられたが、しばらくして持節・都督幽州諸軍事・寧朔将軍に転任となり、幽州の薊城に出鎮した。 301年1月、趙王司馬倫が恵帝を廃して位を簒奪すると、3月に三王(斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬顒)が司馬倫討伐を掲げて決起した。この時、王浚は兵を擁したままどちらにも与せず中立の立場を保ち、三王からの檄文も遮って幽州の将兵が義兵に参加しないようにした。司馬穎はこれを大いに不満に思い、王浚の下へ討伐軍を派遣しようと考えたが、幽州にまで出兵する余裕が無かった。4月、司馬倫が殺害されると、王浚は安北将軍に昇進した。王浚は自身の安全を考慮して非漢民族と修好を深めることにし、娘の一人を段部の大人段務勿塵に、もう一人を宇文部の宗族宇文素延 にそれぞれ嫁がせ、幽州での地盤確立に努めた。
※この「幽州に出鎮」の解説は、「王浚」の解説の一部です。
「幽州に出鎮」を含む「王浚」の記事については、「王浚」の概要を参照ください。
- 幽州に出鎮のページへのリンク