柳城へ侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 04:33 UTC 版)
334年2月、段遼は弟の段蘭に慕容部の柳城攻略を命じると、慕容翰もまたこれに従軍した。だが、柳城を守る都尉石琮・城大慕輿泥は死力を尽くして城を守り抜いたので、段蘭軍は勝利を得られないまま退却を余儀なくされた。段遼は敗戦の報告に激怒して段蘭と慕容翰を叱責し、柳城を必ず攻略するように厳命した。 その後、段蘭軍は再び侵攻を開始すると、雲梯を作り四面同時に昼夜を問わず攻め立てたものの、石琮と慕輿泥はますます堅固に守りを固めたので、またも攻略に失敗して千人余りの兵を失った。だが、石琮らの救援の為に慕容汗・封奕の軍が到来すると、段蘭はこれを牛尾谷において迎え撃ち、散々に打ち破った。段蘭はこの勝ちに乗じて追撃を掛け、敵地深くへ侵入しようと考えたが、慕容翰は祖国が滅ぼされるのではないかと憂慮して「将軍となった以上、その務めは慎重に果たさなければなりません。詳細に敵の兵力を量り、万全でなければ動くべきではありません。今、先鋒を撃破しましたが、敵はまだ主力を残しています。慕容皝は策が多く、伏兵をよく用います。もしも、敵が我等を誘き寄せた上で退路を断ち、全軍を挙げて反撃すれば我等は全滅してしまいます。我等へ課せられたのはこの勝利のみです。もし、君命を無視して攻撃を続けた挙げ句に敗北してしまえば、功名共に失います。その時、何の面目があって国に戻れましょうか」と段蘭を諫めた。これに段蘭は「いや、もし慕容皝を捕虜にすることができればそれ以上の大功はない。卿は故郷を滅ぼしたくないからそのようなことを言うのであろう。今、千年(慕容仁の字)が東に割拠している。我が事が成った暁には、彼を迎え入れて慕容部の後継としよう。そうすれば宗廟の祀りも絶えず、卿の憂いごとも無くなるであろう」と反論したが、なおも慕容翰は「私は既に国を棄てた男です。故国の存亡など、今の私に興味はありません。ただ、この国のことを思うからこそ、功名を惜しむのです」と言い、自分の手勢だけでも引き上げると訴えたので、段蘭もやむをえず軍を退却させた。
※この「柳城へ侵攻」の解説は、「慕容翰」の解説の一部です。
「柳城へ侵攻」を含む「慕容翰」の記事については、「慕容翰」の概要を参照ください。
- 柳城へ侵攻のページへのリンク