宇文部・段部を討つとは? わかりやすく解説

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宇文部・段部を討つ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 17:30 UTC 版)

封奕」の記事における「宇文部・段部を討つ」の解説

333年5月慕容廆この世去り嫡男慕容皝が後を継いだ11月慕容仁慕容皝同母弟)が慕容皝反旗を翻し平郭自立すると、慕容皝遼東慕容仁側に寝返る事を恐れ封奕派遣して遼東慰撫に当たらせた。だが、かつての大司農孫機らは慕容仁呼応して遼東城ごと反旗を翻した為、道路封鎖されてしまった。その為、封奕入城する事が出来ず、城を脱出してきた慕容汗慕容皝異母弟と共に止む無く帰還した同年司馬参謀役)に任じられ、軍諮祭酒についても引き続き兼務した。 334年1月封奕慕容皝対抗していた鮮卑族の木堤討伐為に白狼出撃し、これを撃ち破って木堤の首級挙げた2月段部段蘭段部大人段遼の弟)と慕容翰慕容皝庶兄段部亡命していた)が慕容皝領内侵攻し重要都市である柳城現在の遼寧省朝陽市凌源市)を包囲した。その為、封奕寧遠将軍慕容汗と共に救援赴くよう慕容皝命じられた。出陣前、慕容皝慕容汗へ「賊軍士気高くまともに争うのは得策ではない。万全期し軽々しく進むことのないように。必ず兵が集まり陣が整ってから攻めるようにせよ」と誡めていたが、慕容汗勇猛であったものの性急な人物であり、この忠告無視して千騎余り前鋒軍のみで突撃してしまった。封奕はこの軽率な行動頑なに諫める聞き入れられず、慕容汗牛尾谷において段蘭軍と遭遇し大敗喫して半数上の兵卒戦死してしまった。ただ、封奕が軍を率いて救援向かい陣形整えて奮戦したので、慕容汗撤退する事が出来た。これにより、大い信頼得たという。 335年1月慕容皝左右司馬役職新たに設置すると、封奕は右司馬任じられた。 同年封奕宇文別部宇文部傍系)の渉夜干強襲してこれを撃破し多く資産鹵獲してから帰還した帰還途上、渉夜干騎兵率いて封奕軍を追撃し、渾において両軍は再び交戦したが、封奕返り討ちにした。 336年6月段蘭が再び数万の兵を率いて柳城へ侵攻開始し宇文部大人宇文逸豆帰もまた兵を挙げ段蘭呼応したが、慕容皝自ら柳城入って防衛に当たると、両軍とも軍を退却させた。封奕軽騎兵率いて宇文逸豆帰追撃してこれを撃破すると、宇文逸豆帰放棄した輜重回収し20日余りしてから帰還した慕容皝は再び段部宇文部襲来してくるのを予期し封奕備えるよう命じた封奕はこれに従って騎兵数千率いると、馬兜山諸道伏兵として配置し、敵の侵攻備えた7月目論通り段遼数千騎兵率いて襲来すると、封奕伏せていた兵を繰り出して段遼軍を挟撃し、大い撃ち破って将軍栄保を討ち取った9月封奕宇文別部侵攻し大勝収めてから軍を帰還させた。 これまでの功績により、鎮軍左長史昇進した

※この「宇文部・段部を討つ」の解説は、「封奕」の解説の一部です。
「宇文部・段部を討つ」を含む「封奕」の記事については、「封奕」の概要を参照ください。

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