宇文部を撃退
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302年、宇文部の単于宇文莫珪は弟の宇文屈雲や同族の宇文素延を派遣し、宇文屈雲には慕容部の領土周辺へ侵攻させ、宇文素延には慕容部に従っていた諸部族を攻撃・略奪させた。慕容廆は自ら軍を率いて出撃すると、宇文素延を迎撃してこれを撃ち破った。宇文素延はこの敗戦を大いに恥じ、雪辱を期して10万の兵を率いて棘城を包囲した。これに城内の民はみな震え上がったが、慕容廆は「宇文素延の軍は数こそは多いが統制が取れていない。諸君らはただ力戦すればよい。憂えることなど何も無い!」と鼓舞し、そして自ら出撃しして宇文素延の軍を再び大破した。さらに敗走する敵軍を百里に渡って追撃し、捕縛とするか討ち取った者は1万人を超えた。 遼東人の孟暉は元々宇文部の傘下にあったが、今回の敗戦により離反し、自らが従えていた数千家を引き連れて慕容廆に帰順した。慕容廆は孟暉を建威将軍に任じると共に、配下の慕輿句と慕輿河はいずれも才能を有していたので、慕輿句には府庫の管理を任せ、慕輿河には訴訟の裁決を任せた。この頃、晋朝の混乱は頂点に達しており、303年には蜀の地にて巴氐族の李雄が、304年には河北で匈奴族の劉淵がそれぞれ独立し、こうした情勢の中で306年には恵帝が死亡、新たに異母弟の司馬熾が皇帝に擁立された(懐帝)。
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宇文部を撃退
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313年4月、慕容廆は西晋の司空王浚の呼びかけにより、拓跋部と共同で段部攻略に乗り出すと、慕容翰にその重任を委ねた。慕容翰は棘城より出撃すると、軍を進めて徒河・新城を攻め落とした。さらに陽楽に進むと、西晋の遼西郡太守陽耽と交戦となったが、これを撃破して陽耽を生け捕りとした。だが、拓跋部の将軍拓跋六脩が段部に敗れたと聞き、征伐を中止して徒河に軍を移し、青山を背にして陣営を築いた。その後は棘城に戻らず、数年に渡って徒河に留まった。 319年12月、遼東を実効支配していた西晋の平州刺史崔毖は、慕容廆の勢力が強盛である事を妬み、同じく慕容部と対立していた高句麗・段部・宇文部と同盟を結んで討伐を目論んだ。三国はいずれもこれに応じて兵を挙げ、慕容部の本拠地である棘城へ向けて軍を進めた。慕容廆は離間工作を用いて高句麗と段部の軍を退却させたものの、宇文部の大人(部族長)宇文遜昵延だけは攻略の意志を崩さず、数十万の兵力と四十里にも連なる陣営をもって棘城を威圧した。その為、慕容廆は籠城作戦を取りつつ、徒河に駐屯していた慕容翰に救援を要請したが、慕容翰は使者を派遣して「遜昵延(宇文遜昵延)は国を挙げて来寇しました。敵軍と我等は多勢に無勢であり、計略を使えば易々と打ち破れましょうが、力攻めで勝つのは難しいでしょう。城内の兵だけでも防ぐだけなら十分でしょうから、この翰(慕容翰)は外で遊撃隊となって敵を撹乱し、隙を見つけてこれを撃ちます。内外共に奮戦すれば、敵は震え上がって為す術もなく、敗れるのは必定といえます。今、私が城内に入って軍を一つにしてしまえば、敵は城攻めだけに専念できます。それは上策ではありません。それに、防戦一方の逃げの姿勢を部下へ示すことにも繋がり、戦う前に味方の士気が萎えてしまうことも危惧されます」と答え、救援に向かわなかった。これを読んだ慕容廆は、息子が臆病風に吹かれて参戦を拒絶したかと疑ったが、韓寿が「遜昵延(宇文遜昵延)は勢いこそ盛んでありますが、将は大軍である事に驕っており、兵卒は怠けており、軍律は厳しさを欠いております。もし奇襲を掛けて敵の不意を衝けば、必ず撃破できることでしょう」と進言したので、慕容翰が徒河に留まることを許した。 宇文遜昵延は慕容翰が徒河から動かない事を知って「翰(慕容翰)はもとよりその勇猛さで名を馳せているが、それが今救援に来ようとしていないのは何かを企んでいるのであろう。まず先にこれを取るべきである。城(棘城)など憂うほどのものでもない」と述べ、別動隊として数千騎を派遣して慕容翰を襲撃させた。慕容翰は敵の侵攻を知ると、まず部下を段部の使者に変装させて差し向け、宇文部軍を出迎えさせた。その使者は宇文部軍と合流すると「我々にとって慕容翰は長い間患いの種でした。あなた方がこれを襲撃すると聞き、我等も既に出陣して到着を待っております。どうか速やかに進軍されますよう!」と、段部からの使者として偽りの言葉を伝えた。また、慕容翰は使者を向かわせた後に自ら城を出て伏兵となり、敵軍の到来を待ち受けた。宇文部軍は使者の言葉を真に受けて大いに喜んで進軍を早め、備えもせずに伏兵の待ち受ける地点まで進んだ。ここで慕容翰軍は一斉にこれを奇襲し、奮戦して敵兵を尽く捕らえる事に成功した。 慕容翰はさらに勝ちに乗じて進撃を開始すると、棘城へ使者を派遣して慕容廆へ全軍を総動員して宇文部の本隊を撃つよう請うた。これを受け、慕容廆は慕容皝(慕容翰の異母弟)と長史裴嶷に精鋭を与えて先鋒とし、自らもまた大軍を率いて後続した。宇文遜昵延は全く備えをしていなかったので、慕容廆の出撃に驚いて慌てて全軍を出陣させた。この時、慕容翰は千騎を率いて既に敵陣の背後に控えており、先鋒軍の戦いが始まったのを見計らって宇文遜昵延の陣営へ突入し、これを焼き払っていった。これにより宇文部軍は大混乱に陥って為す術もなく大敗を喫し、宇文遜昵延は体一つで逃げ出す有様であった。この戦いで慕容廆は敵兵のほとんどを捕虜とし、さらに宇文部に代々伝わっていた皇帝の玉璽三紐を手に入れた。
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