宇文部を撃退とは? わかりやすく解説

宇文部を撃退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:53 UTC 版)

慕容廆」の記事における「宇文部を撃退」の解説

302年宇文部単于宇文莫珪は弟の宇文同族宇文素延を派遣し宇文には慕容部領土周辺侵攻させ、宇文素延には慕容部に従っていた諸部族攻撃略奪させた。慕容廆は自ら軍を率いて出撃すると、宇文素延を迎撃してこれを撃ち破った宇文素延はこの敗戦大い恥じ雪辱を期して10万の兵を率いて城を包囲した。これに城内の民はみな震え上がったが、慕容廆は「宇文素延の軍は数こそは多いが統制取れていない。諸君らはただ力戦すればよい。憂えることなど何も無い!」と鼓舞し、そして自ら出撃しして宇文素延の軍を再び大破した。さらに敗走する敵軍百里渡って追撃し捕縛とするか討ち取った者は1万人を超えた遼東人の孟暉は元々宇文部傘下にあったが、今回敗戦により離反し、自らが従えていた数千家を引き連れて慕容廆帰順した慕容廆は孟暉を建威将軍任じると共に配下慕輿句と慕輿河はいずれ才能有していたので、慕輿句には府庫管理任せ、慕輿河には訴訟裁決任せたこの頃晋朝混乱頂点達しており、303年には蜀の地にて巴氐族李雄が、304年には河北匈奴族の劉淵それぞれ独立しこうした情勢の中で306年には恵帝死亡新たに異母弟司馬熾皇帝擁立された(懐帝)。

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宇文部を撃退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 04:33 UTC 版)

慕容翰」の記事における「宇文部を撃退」の解説

313年4月慕容廆西晋司空王浚呼びかけにより、拓跋部共同段部攻略乗り出すと、慕容翰にその重任委ねた慕容翰城より出撃すると、軍を進めて徒河新城攻め落とした。さらに陽楽に進むと、西晋遼西郡太守陽耽交戦となったが、これを撃破し陽耽生け捕りとした。だが、拓跋部将軍拓跋六脩段部敗れた聞き征伐中止して徒河に軍を移し青山を背にして陣営築いたその後城に戻らず数年渡って徒河に留まった。 319年12月遼東実効支配していた西晋平州刺史崔毖は、慕容廆勢力強盛である事を妬み同じく慕容部対立していた高句麗段部宇文部同盟結んで討伐目論んだ三国はいずれもこれに応じて兵を挙げ慕容部本拠地である城へ向けて軍を進めた慕容廆離間工作用いて高句麗段部の軍を退却させたものの、宇文部大人部族長宇文遜昵延だけは攻略意志崩さず数十兵力四十里にも連なる陣営をもって城を威圧した。その為、慕容廆籠城作戦取りつつ、徒河駐屯していた慕容翰救援要請したが、慕容翰使者派遣して「遜昵延(宇文遜昵延)は国を挙げて来寇しました敵軍我等多勢に無勢であり、計略使えば易々と打ち破れましょうが、力攻めで勝つのは難しでしょう城内の兵だけでも防ぐだけなら十分でしょうから、この翰(慕容翰)は外で遊撃隊となって敵を撹乱し、隙を見つけてこれを撃ちます内外共に奮戦すれば、敵は震え上がって為す術もなく敗れるのは必定いえます。今、私が城内入って軍を一つにしてしまえば、敵は城攻めだけに専念できます。それは上策ではありません。それに、防戦一方逃げ姿勢部下へ示すことにも繋がり、戦う前に味方士気萎えてしまうことも危惧されます」と答え救援に向かわなかった。これを読んだ慕容廆は、息子臆病風吹かれ参戦拒絶したかと疑ったが、韓寿が「遜昵延(宇文遜昵延)は勢いこそ盛んでありますが、将は大軍である事に驕っており、兵卒怠けており、軍律厳しさ欠いております。もし奇襲掛けて敵の不意を衝けば、必ず撃破できることでしょう」と進言したので、慕容翰徒河留まることを許した宇文遜昵延慕容翰徒河から動かない事を知って「翰(慕容翰)はもとよりその勇猛さ名を馳せているが、それが今救援来ようとしていないのは何かを企んでいるのであろう。まず先にこれを取るべきである。城(城)など憂うほどのものでもない」と述べ別動隊として数千騎を派遣して慕容翰襲撃させた。慕容翰は敵の侵攻を知ると、まず部下段部使者変装させて差し向け宇文部軍を出迎えさせた。その使者宇文部軍と合流すると「我々にとって慕容翰長い間患いの種でした。あなた方がこれを襲撃する聞き我等も既に出陣し到着待っております。どうか速やかに進軍されますよう!」と、段部からの使者として偽りの言葉伝えたまた、慕容翰使者を向かわせた後に自ら城を出て伏兵となり、敵軍到来待ち受けた宇文部軍は使者言葉真に受けて大い喜んで進軍早め備えもせずに伏兵待ち受ける地点まで進んだ。ここで慕容翰軍は一斉にこれを奇襲し奮戦して敵兵尽く捕らえる事に成功した慕容翰はさらに勝ちに乗じて進撃開始すると、城へ使者派遣して慕容廆全軍総動員して宇文部本隊を撃つよう請うた。これを受け、慕容廆慕容皝慕容翰異母弟)と長史裴嶷精鋭与えて先鋒とし、自らもまた大軍率いて後続した。宇文遜昵延は全く備えをしていなかったので、慕容廆出撃驚いて慌てて全軍出陣させた。この時、慕容翰は千騎を率いて既に敵陣背後控えており、先鋒軍の戦い始まったのを見計らって宇文遜昵延陣営突入し、これを焼き払っていった。これにより宇文部軍は大混乱に陥って為す術もなく大敗喫し宇文遜昵延は体一つ逃げ出す有様であった。この戦いで慕容廆敵兵のほとんどを捕虜とし、さらに宇文部代々伝わっていた皇帝玉璽三紐を手に入れた

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