宇文部を滅ぼす
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343年2月、宇文部の相莫浅渾が前燕へ侵攻した。前燕の諸将はこれと交戦を望んだものの、慕容皝は許さなかった。これにより莫浅渾は敵軍が恐れを為していると思いこみ、酒を飲んだり狩猟をしたりして警備を怠るようになった。これを見た慕容皝は慕容翰へ討伐を命じた。慕容翰は出撃して敵軍と一戦を交えると、これを散々に打ち破って兵卒の大半を捕らえ、莫浅渾はかろうじて逃げ帰った。 344年1月、慕容皝は宇文部討伐のため親征を決意すると、慕容翰は前鋒将軍に任じられて軍の先鋒となり、劉佩がその副将となった。また、慕容軍・慕容恪・慕容覇・折衝将軍慕輿根にもまた各々兵を率い、三道に分かれて進軍した。これに対し、宇文逸豆帰は南羅大の渉夜干へ精鋭兵を与えて迎撃させた。慕容皝は使者を派遣して慕容翰へ「渉夜干の勇名は三軍に鳴り響いている。少し退却した方がよい」と伝えたが、慕容翰は「宇文逸豆帰は、国内の精鋭をかき集めて渉夜干の軍へ配属しました。渉夜干にはもとより勇名があり、国中の頼みの綱となっております。逆に言えば、彼さえ撃退すれば、宇文部は攻撃せずとも自ずから潰れることでしょう。それに、臣は奴らの人となりを知っております。虚名こそありますが、与し易い相手です。退却するのは我が方の士気を挫くだけです」と反論し、進撃を続けた。こうして渉夜干軍と交戦となると、慕容翰は自ら陣より出撃して迎え撃った。これに慕容垂が傍らから援護を行い、慕容翰は渉夜干軍を撃破してその首級を挙げた。これを見た宇文部の兵卒は恐れおののき、戦わずして崩壊した。前燕軍は勝ちに乗じてこれを追撃し、遂に都城を攻略した。 宇文逸豆帰は逃亡を図るも漠北にて命を落とし、こうして宇文部は滅亡した。慕容皝は五千戸を超える住民を昌黎へ強制移住させた。この戦勝により前燕は領土を千里以上広げた。
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宇文部を滅ぼす
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)
同月、宇文部の相国莫浅渾が前燕を攻撃すると、前燕の諸将はこれと戦いたがったが、慕容皝は許さなかった。莫浅渾は敵が恐れていると思いこみ、酒を飲んだり狩猟をしたりして警備など全くしなくなった。そこで慕容皝は「莫浅渾が大いに堕落している今こそ決戦の時である」と言い、慕容翰に騎兵を与えて出撃を命じた。慕容翰は敵軍と一戦を交えるとこれを散々に打ち破り、兵卒の大半を捕らえた。莫浅渾はかろうじて逃げ帰った。 344年1月、慕容皝は宇文部征伐を目論んでおり、左司馬高詡にその是非を問うと、高詡は「宇文部は強盛であり、今取らなくば必ずや国患となります。これを伐てば必ず克ちますが、早く動かねば不利となります」と勧め、慕容皝へ早急に攻め取るよう促した。これにより慕容皝は騎兵2万を率いて自ら出征すると、慕容翰を前鋒将軍とし、副将に劉佩をつけた。さらに広威将軍慕容軍・度遼将軍慕容恪・平狄将軍慕容覇及び折衝将軍慕輿根に兵を与え、三道に分かれて進軍させた。これに対して宇文逸豆帰は猛将である南羅大渉夜干へ精鋭兵を与えて迎撃させた。慕容皝は使者を派遣して慕容翰へ「渉夜干の勇名は三軍に鳴り響いている。少し退却した方がよい」と伝えたが、慕容翰は「宇文逸豆帰は、国内の精鋭をかき集めて渉夜干の軍へ配属しました。渉夜干にはもとより勇名があり、国中の頼みの綱となっております。逆に言えば、彼さえ撃退すれば、宇文部は攻撃せずとも自ずから潰れることでしょう。それに、臣は奴らの人となりを知っております。虚名こそありますが、与しやすい相手です。退却するのは我が方の士気を挫くだけです」と返し、進撃を続けて敵軍と戦った。 慕容翰自らが陣を出撃すると、渉夜干もこれに応戦した。慕容覇が傍らから援護を行い、慕容翰は渉夜干を斬り殺した。これを見た宇文部の兵卒は、恐れおののき戦わずして潰れた。前燕軍は勝ちに乗じて追撃し、遂に都城まで攻略した。宇文逸豆帰は逃げ出し、漠北にて亡くなった。こうして、宇文部は滅亡し、慕容皝は畜産や資貨尽く収め、5千戸を超える部族民を昌黎へ移住させた。また、渉夜干の居城を威徳城と改名し、弟の左将軍慕容彪に守らせてから帰還した。高詡・劉佩はこの戦いで流れ矢に当たり亡くなった。この戦勝で前燕は領土を千里以上広げた。 前燕が宇文部へ侵攻したと聞き、後趙の石虎は右将軍白勝・并州刺史王覇を甘松より出撃させ、救援を命じた。だが、到達したときには既に宇文部は滅ぼされていたので、彼らは方針を変えて威徳城へ侵攻したが、勝利できずに撤退した。この時、前燕の将軍慕容彪より追撃を受け、白勝らは撃ち破られた。 慕容皝は龍城に帰還すると、飲至の礼(宗廟で戦勝報告をして酒を酌み交わす行為)を行うと共に、論功行賞を行って功績に応じて褒賞を与えた。 慕容翰は宇文部との戦いで流れ矢に当たってしまったので、しばらく床に伏せるようになり、出仕することも出来なかった。やがて少しずつ傷が癒えてくると、自邸で馬の試し乗りを行うようになったが、これを見た者が慕容皝へ「慕容翰は病と称して家に閉じこもり、密かに乗馬の練習をしております」と告げた。これは慕容翰を疑わせようとしての讒言に過ぎなかったが、心中彼の勇名を恐れるようになっていた慕容皝はこれを信じ込んでしまい、慕容翰へ自害を命じてしまった。慕容翰はこの命を受け入れ、自ら毒を飲んで自害した。
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