宇文逸豆帰の時代
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同月、慕容皝が宇文部に侵攻すると、宇文逸豆帰は講和を求めた。慕容皝はこれに応じ、楡陰・安晋の2城を築いてから帰還した。 11月、慕容皝の弟である征虜将軍慕容仁が反乱を起こして遼東を占拠すると、宇文逸豆帰は慕容仁を支援した。 335年、宇文別部が慕容部より侵略を受け、多くの資産が奪われた。宇文部の将軍渉夜干は帰還中の封奕に追撃を掛けたが、返り討ちに遭った。 12月、拓跋紇那は宇文部の支援を得て代へ攻め込むと、諸部大人はこれを迎え入れ、再び代王に即位させた。 336年6月、段部に呼応して慕容部領の安晋へ侵攻した。慕容皝が5万を率いて柳城に進軍すると、宇文逸豆帰は退却したが、追撃を受けて輜重を失った。 同年、封奕により宇文別部が侵略され、大敗を喫した。 339年10月、慕容部が宇文別部を攻撃した。 343年2月、宇文逸豆帰は相莫浅渾に前燕を攻撃させたが、慕容皝は撃って出なかった。莫浅渾は敵が恐れていると思いこみ、油断して警備を疎かにした。これを見た慕容皝は慕容翰を出撃させ、莫浅渾は散々に打ち破られた。これにより兵卒の大半が捕らえられ、莫浅渾はかろうじて逃げ帰った。 8月、宇文逸豆帰は逃亡中であった段遼の弟の段蘭を捕らえると、後趙へ送り、併せて駿馬1万匹を献上した。宇文逸豆帰は一貫して後趙に従属し、貢献を絶やす事は無かったという。 344年1月、慕容皝は宇文部討伐の兵を挙げ、三道に分かれて進軍させた。宇文逸豆帰は南羅大の渉夜干へ精鋭兵を与えて迎撃させたが、渉夜干は敗北を喫して慕容翰に討ち取られた。宇文部の兵卒は恐れおののき、戦わずして潰れた。前燕軍は勝ちに乗じて追撃し、遂に都城を攻略した。宇文逸豆帰は逃亡を図り、遠く漠北まで至ったところで亡くなった(高句麗に亡命したともいわれる)。こうして、宇文部は滅亡した。
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