宇文遜昵延の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 17:17 UTC 版)
宇文遜昵延の時代、宇文部は漠北にも勢力を広げた。 319年12月、遼東を支配する東晋の東夷校尉崔毖と結託し、高句麗・段部とも同盟を結んで慕容部へ共同で攻め入った。慕容部の大人慕容廆の離間工作により、高句麗・段部は撤兵してしまったが、宇文遜昵延は攻撃の意志を崩さず数十万の兵と四十里にも連なる陣営で棘城を攻め立てた。また、徒河にいる慕容廆の庶長子慕容翰から挟撃を受ける事を恐れ、数千騎を派遣して慕容翰を襲撃させた。だが、宇文部軍は伏兵に引っ掛かり、大敗を喫して尽く捕らえられた。慕容廆が城から撃って出ると、宇文遜昵延は全軍をもって迎撃させたが、慕容翰は千騎を率いて宇文部の陣営の背後に迫っており、慕容皝の軍が戦いを始めたのを見計らってへ突入し、陣を焼き払っていった。宇文遜昵延の兵は大混乱に陥り、為す術もなく大敗した。宇文遜昵延は体一つで逃げ出し、兵卒のほとんどが捕虜となった。更に、宇文部に代々伝わる玉璽三紐も奪われてしまった。その後、宇文遜昵延は棘城へ使者を派遣し、和平を請うた。 宇文遜昵延が死ぬと、子の宇文乞得亀が後を継いだ。
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