宇文乞得亀の時代
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325年1月、後趙君主石勒の要請により慕容部の攻撃に向かうと、慕容廆は嫡男の慕容皝・遼東相裴嶷・征虜将軍慕容仁らに迎撃させた。宇文乞得亀は兄の宇文悉跋堆に慕容仁を攻めさせたが、返り討ちに遭って戦死し、さらに慕容皝・慕容仁の攻勢により宇文乞得亀は大敗を喫した。宇文乞得亀は夜を待って単騎で逃走を図ったが、その兵は尽く捕らえられた。慕容仁・慕容皝はこれに乗じて宇文部の都城へも侵入したので、重宝は尽く奪われ、百万の畜産が鹵獲され、数万の民が略奪された。 327年12月、代王拓跋紇那に協力して賀蘭部の帥賀蘭藹頭を討ったが、撃退された。329年12月、代で政変が起こり、拓跋紇那が宇文部へ亡命して来ると、これを迎え入れた。 333年8月、宇文乞得亀は東部大人の宇文逸豆帰により領土を追放され、逃走中に亡くなった。
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