慕容評の失政
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同月、前秦へ使者として派遣されていた給事黄門侍郎梁琛が鄴に帰還した。梁琛は慕容評へ「秦では日夜軍事訓練が行われ、多量の兵糧が陝東へ運び込まれております。我が見ますに、今の平和は長くは続きますまい。呉王垂も秦へ亡命してまった事で、秦は必ずや我らの隙を衝くでしょう。すぐにでも防備を固められますよう。今、中原が二つに別れて対立しているのは、互いに相手を併呑せんと画策した為ではあり、桓温の来寇により秦が援軍を出したのは、我らとの友好によるものではありません。もし燕に隙を見つければ、どうして彼らが本来の志を忘れましょうか!」と訴えたが、慕容評は取り合わなかった。梁琛は慕容暐にもこの事を告げたが、慕容暐もまた応じなかった。皇甫真もまた洛陽・太原・壷関の守備を固めて前秦へ備える様上疎すると、慕容暐は慕容評を呼び出してこの事を問うた。だが、慕容評は「秦は弱小であり、我らの力を頼みとしております。それに、苻堅は国交にはそれなりに気を配っております。亡命者の口車に乗り、交流を断絶するような事はしないでしょう。それより、軽率に動いて相手を警戒させる事が紛争の種となるでしょう」と反論し、結局軍備増強に動く事はなかった。 前秦の黄門郎石越が使者として到来すると、慕容評は前燕の富盛を誇示する為、盛大にもてなした。尚書郎高泰・太傅参軍劉靖は慕容評へ、豪奢な様を見せつけては益々侮られるだけであり、軍事訓練を派手に見せて敵の意気を喪失させるべきだと訴えたが、慕容評は従わなかった。高泰はこれに失望し、病気と称して職を辞した。 当時、連年にわたり兵難が続き、国力は大いに疲弊した。また、皇太后可足渾氏は国政を乱し、慕容評は財貨を貪って飽くことが無かった。そのため、朝廷でも賄賂は横行し、官吏の推挙も才能ではなく賄賂によって決まったので、下々には怨嗟の声が溜まった。尚書左丞申紹はこの状況を憂えて「守宰(郡太守や県令などの地方長官)というのは、国家を安定させる大本であります。今、守宰は正しい人を得られておらず、時には一兵卒からのし上がった武人であったり、時には貴族の子弟であったりと、郷里での選挙で選ばれた訳ではありません。朝廷の職でもそれは変わらず、法によらず官位を変動させ、怠惰な者でも刑罰を恐れず、清修な者への褒賞がありません。これにより百姓は困弊して盗賊が横行し、綱紀は衰退してしまって互いに乱れを直し合おうという風潮も無くなりました。また、官吏の数もみだりに増え、それが先代を越えてしまっております。これにより公私問わず紛然としており、甚だ乱れきっております。我が大燕の人口は、二寇(前秦・東晋)を合わせる程に多く、弓馬の力強さは四方に及ぶものがおりません。にも関わらず、近年は幾度も敗戦を喫しております。これは全て守宰の租税が公平でなく、侵漁する事を止めないので、兵卒達はみな辛苦して行軍を止め、その命に従おうとしないことに由来しております。また、後宮には四千人余りがおりますが、これに仕える者がさらに外にはおり、一日に万金を費やす事になっております。さらには、士民もこれを真似て奢靡(豪華な振る舞い)を競い合っております。あの秦(前秦)や呉(東晋)は愚かにも僭称しておりますが、それでも筋道に則って統治を行っております。奴らは天下併呑の志を持っておりますのに、我らは上下ともに一向に改めようとせず、その秩序は日毎に失われております。我らの乱れこそ奴らの望みなのです。どうか守宰の人選をより精細に行い、官吏の数を減らして下さい。兵家を労い、公私ともに浪費を節減し、物品を大切にし、功績があった者は必ず賞し、罪を犯した者は必ず罰してくださいますよう。これでこそ、温(桓温)・猛(王猛)を晒し首にする事が出来、二方を取る事が出来るのです。境を保って民を安んじるだけに留まりましょうか!また、索頭什翼犍(代王の拓跋什翼犍)は疲病により乱れており、貢物が乏しいといえども、煩いを為すことも無いでしょう。また、兵を労して遠くこれを征伐しても、損があるだけで益はありません。并州へ軍を動かすよりも、西河を控制し、南は壺関を固め、北は晋陽を重くし、西寇が来たらばこれを拒守してその後ろを断つのです。これは軍隊を無用な地の孤立した城を守らせるよりよい計画かと」と上疏し、守宰の人選見直しと官吏の削減、また経費の節減と官吏への正しい賞罰を行う様訴えたが、聞き入れられる事はなかった。
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