昌黎を侵犯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:53 UTC 版)
元々、慕容部は魏晋朝廷に従属していたが、慕容渉帰の時代になると西晋に離反して昌黎郡へ攻め入るようになり、その関係は悪化していた。 また当時、同じ鮮卑族である宇文部は遼西地方において強盛であり、慕容部とは父の代より対立していた。285年、慕容廆は父の恨みを晴らそうと考え、西晋朝廷へ宇文部討伐の許可を求めたが、認められなかった。慕容廆はこれに怒って遼西へ侵攻すると、多数の人民を殺戮して物資を略奪した。これを受け、武帝は幽州の諸軍に慕容廆を討伐させ、慕容廆は肥如においてこれを迎え撃つも大敗を喫してしまい、その軍を撤退させた。しかし、これ以後も慕容廆は連年に渡り昌黎へ襲来しては略奪を繰り返したという。
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