昌貞の子孫と三枝氏の由緒とは? わかりやすく解説

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昌貞の子孫と三枝氏の由緒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 01:02 UTC 版)

三枝昌貞」の記事における「昌貞の子孫と三枝氏の由緒」の解説

詳細は「三枝氏」を参照 昌貞嫡男の守吉は幼少であったため、叔父にあたる昌吉名代務める。昌貞の父・虎吉武田氏滅亡後まで存命し、天正壬午の乱経て甲斐支配した徳川氏帰属している。徳川家となった三枝氏昌吉家督継ぎ、守吉は分家起している。守吉系の子孫は元禄11年1698年)に近江国移封し、徳川家旗本となっている。守吉系の子孫は明治期断絶しているが家伝文書(「三枝文書」)は滋賀県東近江市北須田町の守国神社現存しており、東近江市能登川博物館において寄託されている。 なお、古代甲斐国において甲府盆地東部中心に勢力をもっていた在庁官人である三枝氏存在し平安時代後期には甲斐源氏土着以前没落した考えられている。中世には古代開創された柏尾山大善寺山梨県甲州市勝沼町勝沼)が三枝一族の「三枝守国」によって開創されたとする由緒成立している。 旗本として存続した昌貞の子孫は戦国期三枝氏遠祖古代豪族三枝氏求めており、江戸後期成立した甲斐国志においては三枝氏信虎期に庶流石原守種の次男守綱によって再興されたとしている。 戦国期三枝氏古代豪族三枝氏系譜関係が確実に遡れるかは不明であるが、室町戦国期には武田家三枝氏柏尾大善寺との由緒示した文書作成されており、武田家臣の三枝氏自家の由緒古代豪族三枝氏求めている。一方で戦国期武田家中においては三枝氏寄親である山県姓を称していたほうがより価値有していたことが指摘されている。 なお、文書上に見られる三枝一族実名から三枝氏通字は「吉」であると考えられているが、『甲陽軍鑑』や『寛永譜』、近世編纂資料においては昌貞の実名を「守友」とし、三枝氏通字を「守」としている。これは「三枝守国」の由緒反映したもので、武田氏滅亡後近世期には甲斐古代氏族三枝氏由緒強調することがより価値有するように変化していったと考えられている。

※この「昌貞の子孫と三枝氏の由緒」の解説は、「三枝昌貞」の解説の一部です。
「昌貞の子孫と三枝氏の由緒」を含む「三枝昌貞」の記事については、「三枝昌貞」の概要を参照ください。

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