昌貞の子孫と三枝氏の由緒
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「三枝昌貞」の記事における「昌貞の子孫と三枝氏の由緒」の解説
詳細は「三枝氏」を参照 昌貞嫡男の守吉は幼少であったため、叔父にあたる昌吉が名代を務める。昌貞の父・虎吉は武田氏滅亡後まで存命し、天正壬午の乱を経て甲斐を支配した徳川氏に帰属している。徳川家臣となった三枝氏は昌吉が家督を継ぎ、守吉は分家を起している。守吉系の子孫は元禄11年(1698年)に近江国に移封し、徳川家の旗本となっている。守吉系の子孫は明治期に断絶しているが家伝文書(「三枝家文書」)は滋賀県東近江市北須田町の守国神社に現存しており、東近江市能登川博物館において寄託されている。 なお、古代甲斐国において甲府盆地東部を中心に勢力をもっていた在庁官人である三枝氏が存在し、平安時代後期には甲斐源氏の土着以前に没落したと考えられている。中世には古代に開創された柏尾山大善寺(山梨県甲州市勝沼町勝沼)が三枝一族の「三枝守国」によって開創されたとする由緒が成立している。 旗本として存続した昌貞の子孫は戦国期三枝氏の遠祖を古代豪族三枝氏に求めており、江戸後期に成立した『甲斐国志』においては、三枝氏は信虎期に庶流の石原守種の次男守綱によって再興されたとしている。 戦国期の三枝氏と古代豪族三枝氏の系譜関係が確実に遡れるかは不明であるが、室町・戦国期には武田家臣三枝氏と柏尾大善寺との由緒を示した文書が作成されており、武田家臣の三枝氏は自家の由緒を古代豪族三枝氏に求めている。一方で戦国期の武田家中においては、三枝氏の寄親である山県姓を称していたほうがより価値を有していたことが指摘されている。 なお、文書上に見られる三枝一族の実名から三枝氏の通字は「吉」であると考えられているが、『甲陽軍鑑』や『寛永譜』、近世の編纂資料においては昌貞の実名を「守友」とし、三枝氏の通字を「守」としている。これは「三枝守国」の由緒を反映したもので、武田氏滅亡後の近世期には甲斐古代氏族三枝氏の由緒を強調することがより価値を有するように変化していったと考えられている。
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