劉琨と結託
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310年10月、并州刺史劉琨は拓跋猗盧へ使者を送り、子の劉遵を人質とさせた。拓跋猗盧はその意を喜び、厚く褒美を贈った。同時期、白部大人が反乱を起こして西河に進軍し、これに応じて鉄弗部の劉虎は雁門で挙兵し、劉琨の守る新興・雁門の二郡を攻撃した。劉琨は拓跋猗盧のもとへ使者を派遣し、腰を低く礼を尽くして救援を求めた。拓跋猗盧は甥の拓跋鬱律に将騎2万を与え、劉琨を助けさせた。拓跋鬱律は白部を大破し、さらに劉虎を攻め、その陣営を落とした。劉虎は西の朔方に逃走した。これにより拓跋猗盧と劉琨の結びつきはさらに強くなり、両者は義兄弟の契りを結んだ。 その後、劉琨の上表により、拓跋猗盧は大単于・代公に封じられた。だが、代郡は幽州に属しており、幽州を統治していた王浚は代郡を開け渡すのを拒絶した。拓跋猗盧は王浚から攻撃を受けたが、これを撃退した。これ以来、王浚と劉琨は敵対するようになった。 劉琨はまた拓跋猗盧へ使者を送り洛陽救援のために援軍を要請すると、拓跋猗盧は歩騎2万を派遣してこれを助けた。 代郡は拓跋猗盧の本拠地・盛楽から離れていたため、彼は1万戸余りの部落を率いて雁門へ移り、陘北(雁門関の北側一帯)を封地とするよう求めた。劉琨はこれを止めることができず、また拓跋猗盧の兵力を頼みとしていたこともあり、楼煩・馬邑・陰館・繁畤・崞の民を陘南へ移住させ、この5県を拓跋猗盧へ与えた。以来、拓跋猗盧の勢力は、さらに増大した。 劉琨は太傅司馬越へ使者を派遣し、拓跋猗盧と共に出兵して劉聡と石勒を討とうと持ちかけた。だが、司馬越は青州刺史・苟晞と豫州刺史・馮崇に背後を突かれることを恐れ、断った。劉琨は征討を諦め、拓跋猗盧へ謝罪し、その兵を本国へ帰らせた。 311年、劉琨の牙門将の邢延は新興で反乱を起こし、劉聡を招き寄せた。拓跋猗盧は軍を遣わしてこれを討ち、劉聡を退走させた。 312年3月、靳沖・卜珝らが晋陽を攻めると、拓跋猗盧は救援軍を派遣し、これを撃退した。 8月、劉琨は使者を送り劉聡、石勒を討伐するため、援軍を要請した。拓跋猗盧は劉琨に忠義をもってこれを認めた。その間に、劉聡は子の劉易と劉粲および族弟の劉曜を晋陽に派遣し、劉琨の父母を殺しその城を占拠した。劉琨はこのことを報告すると、拓跋猗盧は大いに怒った。10月、長子の拓跋六脩、拓跋猗㐌の子の拓跋普根および衛雄・范班・箕澹らを前鋒として遣わし、拓跋猗盧は20万を統べ後継となった。劉粲は恐れて、輜重を焼き、攻囲を突破して遁走した。拓跋六脩は、劉曜と汾東で戦い、これを大いに破った。劉曜・劉粲らは晋陽に戻ったが、夜の間に蒙山を越え、平陽に撤退した。 11月、拓跋猗盧は追撃をかけ、その将の劉儒・劉豊・簡令・張平・邢延を斬り、屍は数百里にもわたった。その後、拓跋猗盧は寿陽山で大規模な狩猟を行った。劉琨は拓跋猗盧の陣営へ拝謝に来て、拓跋猗盧は礼をもってこれをもてなした。劉琨は強く進軍を求めたが、拓跋猗盧は 「我の救援が遅れた為に、君の父母は殺されてしまい、心から申し訳なく思う。ただ、君は并州を回復することが出来た。しかも、我は遠方から来て、兵馬も疲弊しており、みな戦役の終結を待っている。それに、賊徒は簡単に滅ぼせるものでもない。一旦兵を退き、時期を待ってもよいのではないか。」と言った。劉琨は敢えてそれ以上は何も言えず、拓跋猗盧に従った。 この後、劉粲らは再び攻勢を掛け、遂に晋陽を攻略した。拓跋猗盧は自ら兵を率いて劉粲の軍を破ると、劉琨は再び晋陽へ入城した。拓跋猗盧は劉琨に馬、牛、羊各千頭余りと車百乗を譲ると、将の箕澹、段繁等に晋陽の守備を命じて帰還した。 313年5月、王浚は拓跋猗盧に大金を送り、慕容廆と共に遼西公の段疾陸眷討伐を求めた。拓跋猗盧はこれを容れ、拓跋六脩を派遣させたが、拓跋六脩は段疾陸眷に敗れて撤退した。 6月、拓跋猗盧は劉琨と陘北で会合し、平陽攻略の策を練った。7月、劉琨が藍谷に進むと、拓跋猗盧は拓跋普根を派遣して北屈に駐軍させた。劉琨は監軍の韓拠に命じ、西河から南下して平陽西の西平城に向かわせた。漢帝劉聡は大将軍の劉粲に劉琨を、驃騎将軍の劉易に拓跋普根を防がせ、蕩晋将軍の蘭陽に西平城を救援させた。拓跋猗盧らは漢軍が動いたと知ると退却した。
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