代の建国とは? わかりやすく解説

代の建国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 05:10 UTC 版)

拓跋部」の記事における「代の建国」の解説

拓跋禄官の跡を継いだ拓跋猗盧は、3分割された拓跋部再び統一した。310年并州刺史劉琨拓跋部に遣使を送り、子の劉遵人質とさせた。猗盧はその意を喜び厚く褒美を贈る。白部大人は叛いて西河入り、これに応じて鉄弗部劉虎雁門挙兵劉琨のいる新興雁門の2郡を攻める。劉琨援軍要請し猗盧は甥の拓跋鬱律の将騎2万使い劉琨助けこれを撃ち白部大破する。次に劉虎攻め、その陣営を落とす。劉虎は西走し、朔方逃れた。この功により、晋の懐帝猗盧を大単于進め、代公に封じた劉琨はまた遣使を送り洛陽を救う援軍求め猗盧は歩騎2万遣わしこれを助ける。この年、漢の劉淵死んで、子の劉聡が立つ。 311年劉琨牙門将の邢延は新興で叛き、劉聡招き寄せる猗盧は軍を遣わしてこれを討ち劉聡を退走させる。312年劉琨は遣使を送り劉聡石勒討伐する援軍要請し猗盧劉琨忠義をもってこれに応じたその間に、劉聡は子の劉粲遣わして晋陽襲い劉琨父母殺しその城を占拠した劉琨がこのことを報告すると、猗盧大い怒り長子の六脩、猗㐌の子の普根及び衛雄・范班・箕澹らを前鋒として遣わし猗盧大衆20統べ後継となる。劉粲懼れ輜重焼き攻囲突破して遁走した。縦騎はこれを追い、その将の劉儒・劉豊・簡令・張平・邢延を斬り、伏屍は数百里にもわたった劉琨拝謝来て猗盧は礼をもってこれをもてなしたこの年、晋の雍州刺史賈疋京兆尹閻鼎らは、懐帝劉聡囚われたので、懐帝の兄の子秦王司馬鄴愍帝)を共立太子とした。猗盧はふたたび戒厳劉琨与し、更に大挙し勝つ。313年盛楽城を北都とし、平城南都とした。新たに小平城を築城し、長子拓跋六脩鎮守させ、南部統領させた。 315年、晋の愍帝猗盧進めて代王とし、代郡常山郡に官属を置いた。ここに代国百官を置き、刑法定めるなど国家としての体制を整える316年猗盧は六脩を召すが、六脩が来ないので猗盧怒り、これを討つが、逆に敗れてしまう。猗盧民間まぎれて逃亡するが、遂に捕まって殺された。そのころ普根は外境を守っていたが、このことを聞いて駆けつけ、六脩を攻め滅す猗盧配下だった衛雄・箕澹は晋人及び烏丸300餘家を率い劉琨の子劉遵につき従い并州に南奔した。普根は即位する数カ月卒去した。普根の子生まれたので、猗㐌の后(惟氏)はこれを立てる。その冬、普根の子卒去し、立て続け代王卒去した。 穆帝文平帝哀帝相次いで亡くなると、思帝の子の鬱律が即位した318年匈奴鉄弗部劉虎朔方拠り代国西部侵攻してきた。拓跋鬱律はこれを大破し劉虎敗走させる劉虎従弟の劉路孤は部落率いて帰順してきたので、鬱律は娘をやった。このころ代国は、西は烏孫故地兼ね、東は勿吉以西併呑し、騎射ができる将は100万のぼったという。この年、漢の劉聡死んで、子の劉粲が立つが、在位1か月でその外戚靳準殺されたので、劉淵族子劉曜立った劉曜は遣使を送り代国和親はかったが、鬱律は晋の愍帝劉曜殺されたと聞いていたので、受け入れなかった。319年石勒は自ら趙(後趙)王と称し代国和親をはかり、兄弟となることを請うた。しかし、鬱律は遣使を斬り捨て断絶する321年東晋元帝が遣使を送り爵位与えるが、鬱律はこれを断った。猗㐌の后(惟氏)は、鬱律が衆の心を得ているのに対し自分の子に利がないのを恐れて、鬱律と諸大人殺し死者は数10人に及んだ

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代の建国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 06:53 UTC 版)

拓跋猗盧」の記事における「代の建国」の解説

313年冬、拓跋猗盧盛楽城を北都とし、平城南都とした。平城新たに立て直し長子拓跋六脩鎮守させ、南部統領させた。 314年劉琨拓跋猗盧に漢攻撃依頼し、彼らは期日約束し平陽合流することを決めた。ちょうどこの時期石勒王浚捕縛し、その勢力併合した拓跋猗盧属する諸族1万余りは、このことを聞くと、石勒呼応して反乱起こした。事が露見すると、拓跋猗盧すぐさま討伐に当たり、全員皆殺しにした。しかし、漢攻略中止せざるを得なくなった315年2月愍帝拓跋猗盧を進爵して代王封じ、代、常山2郡に官属を置くことが許された。拓跋猗盧百官を置き、刑法定めるなど国家としての体制整えた。これが代国始まりとされる拓跋猗盧は、并州従事含を配下迎えたかったので、劉琨のもとへ使者派遣してその旨伝えた劉琨承諾したが、自身はこれを拒否した劉琨は「并州弱く逸材少ない。それでも、我が領土持ちこたえられているのは、代王の力があってこそなのだ。我は身を低くし、息子人質にしてまで彼に奉じているが、それは朝廷の恥をごうと思っているからだ。お前が代王のもとへ行って、その腹心となれば一州頼みとなるのだぞ。卿がもしも忠臣ならば、何で小事こだわって殉国大節見失うのか。」と、含へ説いた含はこれに応じて代へ行くと、拓跋猗盧は彼を重用し大計にも参画させた。 拓跋猗盧は、非常に厳格に法を適用し、国の人が法を犯せば、その部族全員誅殺することもあった。ある時、老人幼児の手携えて歩いく一団があった。道行く人が、どこへ行くのか尋ねると、彼等は「処刑されに行くのです。」と言った。だが、彼らは誰一人として逃亡しようとしなかったという。

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