代の建国
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拓跋禄官の跡を継いだ拓跋猗盧は、3分割された拓跋部を再び統一した。310年、并州刺史の劉琨は拓跋部に遣使を送り、子の劉遵を人質とさせた。猗盧はその意を喜び、厚く褒美を贈る。白部大人は叛いて西河に入り、これに応じて鉄弗部の劉虎は雁門で挙兵、劉琨のいる新興・雁門の2郡を攻める。劉琨は援軍を要請し、猗盧は甥の拓跋鬱律の将騎2万を使い、劉琨を助けこれを撃ち白部を大破する。次に劉虎を攻め、その陣営を落とす。劉虎は西走し、朔方に逃れた。この功により、晋の懐帝は猗盧を大単于に進め、代公に封じた。劉琨はまた遣使を送り洛陽を救う援軍を求め、猗盧は歩騎2万を遣わしこれを助ける。この年、漢の劉淵が死んで、子の劉聡が立つ。 311年、劉琨の牙門将の邢延は新興で叛き、劉聡を招き寄せる。猗盧は軍を遣わしてこれを討ち、劉聡を退走させる。312年、劉琨は遣使を送り劉聡・石勒を討伐する援軍を要請し、猗盧は劉琨に忠義をもってこれに応じた。その間に、劉聡は子の劉粲を遣わして晋陽を襲い、劉琨の父母を殺しその城を占拠した。劉琨がこのことを報告すると、猗盧は大いに怒り、長子の六脩、猗㐌の子の普根及び衛雄・范班・箕澹らを前鋒として遣わし、猗盧は大衆20万を統べ後継となる。劉粲は懼れて輜重を焼き、攻囲を突破して遁走した。縦騎はこれを追い、その将の劉儒・劉豊・簡令・張平・邢延を斬り、伏屍は数百里にもわたった。劉琨は拝謝に来て、猗盧は礼をもってこれをもてなした。この年、晋の雍州刺史の賈疋・京兆尹の閻鼎らは、懐帝が劉聡に囚われたので、懐帝の兄の子の秦王司馬鄴(愍帝)を共立し太子とした。猗盧はふたたび戒厳、劉琨と与し、更に大挙し勝つ。313年、盛楽城を北都とし、平城を南都とした。新たに小平城を築城し、長子の拓跋六脩に鎮守させ、南部を統領させた。 315年、晋の愍帝は猗盧を進めて代王とし、代郡・常山郡に官属を置いた。ここに代国は百官を置き、刑法を定めるなど国家としての体制を整える。316年、猗盧は六脩を召すが、六脩が来ないので猗盧は怒り、これを討つが、逆に敗れてしまう。猗盧は民間にまぎれて逃亡するが、遂に捕まって殺された。そのころ普根は外境を守っていたが、このことを聞いて駆けつけ、六脩を攻め滅す。猗盧の配下だった衛雄・箕澹は晋人及び烏丸人300餘家を率い、劉琨の子の劉遵につき従い并州に南奔した。普根は即位するが数カ月で卒去した。普根の子が生まれたので、猗㐌の后(惟氏)はこれを立てる。その冬、普根の子も卒去し、立て続けに代王が卒去した。 穆帝・文平帝・哀帝が相次いで亡くなると、思帝の子の鬱律が即位した。318年、匈奴鉄弗部の劉虎は朔方に拠り、代国西部に侵攻してきた。拓跋鬱律はこれを大破し、劉虎を敗走させる。劉虎の従弟の劉路孤は部落を率いて帰順してきたので、鬱律は娘をやった。このころの代国は、西は烏孫の故地を兼ね、東は勿吉以西を併呑し、騎射ができる将は100万にのぼったという。この年、漢の劉聡が死んで、子の劉粲が立つが、在位1か月でその外戚の靳準に殺されたので、劉淵の族子の劉曜が立った。劉曜は遣使を送り、代国に和親をはかったが、鬱律は晋の愍帝が劉曜に殺されたと聞いていたので、受け入れなかった。319年、石勒は自ら趙(後趙)王と称し、代国と和親をはかり、兄弟となることを請うた。しかし、鬱律は遣使を斬り捨て断絶する。321年、東晋の元帝が遣使を送り爵位を与えるが、鬱律はこれを断った。猗㐌の后(惟氏)は、鬱律が衆の心を得ているのに対し、自分の子に利がないのを恐れて、鬱律と諸大人を殺し、死者は数10人に及んだ。
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代の建国
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313年冬、拓跋猗盧は盛楽城を北都とし、平城を南都とした。平城を新たに立て直し、長子の拓跋六脩に鎮守させ、南部を統領させた。 314年、劉琨は拓跋猗盧に漢攻撃を依頼し、彼らは期日を約束し平陽で合流することを決めた。ちょうどこの時期、石勒は王浚を捕縛し、その勢力を併合した。拓跋猗盧に属する諸族1万戸余りは、このことを聞くと、石勒に呼応して反乱を起こした。事が露見すると、拓跋猗盧はすぐさま討伐に当たり、全員皆殺しにした。しかし、漢攻略は中止せざるを得なくなった。 315年2月、愍帝は拓跋猗盧を進爵して代王に封じ、代、常山2郡に官属を置くことが許された。拓跋猗盧は百官を置き、刑法を定めるなど国家としての体制を整えた。これが代国の始まりとされる。 拓跋猗盧は、并州従事の莫含を配下に迎えたかったので、劉琨のもとへ使者を派遣してその旨を伝えた。劉琨は承諾したが、莫含自身はこれを拒否した。劉琨は「并州は弱く、逸材は少ない。それでも、我が領土が持ちこたえられているのは、代王の力があってこそなのだ。我は身を低くし、息子を人質にしてまで彼に奉じているが、それは朝廷の恥を雪ごうと思っているからだ。お前が代王のもとへ行って、その腹心となれば、一州の頼みとなるのだぞ。卿がもしも忠臣ならば、何で小事にこだわって、殉国の大節を見失うのか。」と、莫含へ説いた。莫含はこれに応じて代へ行くと、拓跋猗盧は彼を重用し、大計にも参画させた。 拓跋猗盧は、非常に厳格に法を適用し、国の人が法を犯せば、その部族を全員誅殺することもあった。ある時、老人や幼児の手を携えて歩いく一団があった。道行く人が、どこへ行くのか尋ねると、彼等は「処刑されに行くのです。」と言った。だが、彼らは誰一人として逃亡しようとしなかったという。
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