建国の年とは? わかりやすく解説

建国の年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 20:45 UTC 版)

東明聖王」の記事における「建国の年」の解説

上述通り伝説では紀元前37年建国したというが、実際に元鳳6年紀元前75年)に玄菟郡廃止された時、高句麗侯として自立したとみられている。紀元32年高句麗侯は高句麗王昇格したがこれは漢の朝廷から与えられ称号であり、自称としては伝説通り紀元前37年実質的にであったとして問題ない考えられている。『日本書紀』天智天皇紀では、668年高句麗滅亡は仲牟王の建国からちょう700年であったとされ、逆算する建国紀元前32年となる。『新唐書』高麗伝、『唐会要高句麗では高宗問われ侍御史の賈言忠(賈曾の父、賈至祖父)の言葉として、漢代建国から滅亡まで900年とするが、王名記していない。『三国史記東明聖王本紀上述のように建国紀元前37年とする一方宝蔵王本紀では新唐書と同様、漢代建国から900年記し新羅本紀文武王10年670年)安勝を高句麗王封じた冊命書では太祖中牟王から800年記している。 好太王碑広開土王碑)では好太王は鄒牟王の17世とする。これを17世孫の意味にとると、『三国史記高句麗本紀広開土王東明聖王12世孫とあるのと比べて5世代も多い。そこで『三国史記』は新羅王室に連なる慶州金氏金富軾編纂したものであり、新羅持ち上げるために高句麗建国年を新羅自称建国年(実際に4世紀末から5世紀初頭)よりも後にしたとみる説もあったが、現在では碑文17世は「17代目の意味とするのが普通である。

※この「建国の年」の解説は、「東明聖王」の解説の一部です。
「建国の年」を含む「東明聖王」の記事については、「東明聖王」の概要を参照ください。

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