建国と承認とは? わかりやすく解説

建国と承認

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 10:17 UTC 版)

カトリック聖職者のウスタシャへの関与」の記事における「建国と承認」の解説

詳細は「クロアチアのカトリック」を参照 クロアチア独立国建国直ちカトリック教会聖職位階制多く司祭から歓迎された。ウスタシャ最高指導者アンテ・パヴェリッチカトリッククロアチア文化にとって不可欠であると見ており、反セルビアで親カトリックだった。コーンウェルは「1300年前に遡る教皇権への忠誠心」をカトリック教徒クロアチア人からの正教徒であるセルビア人対す恨みと共に、「クロアチア独立国形成を下から支えた」という歴史上実績一つとして見ている。 バチカン承認幅広いクロアチア人支持を得る為にであったから、ウスタシャしてみれば、「バチカンとの関係ドイツとの関係と同じ位に重要であった」。アンテ・パヴェリッチクロアチア独裁者になった直後1941年5月ローマで教皇個人的謁見受けた。マイケル・フェイヤー(Michael Phayer)によると、「1941年教皇祝福受けた後に、アンテ・パヴェリッチウスタシャ軍人達は彼らの新し国家語られない虐殺無遠慮に開始した」という。しかしながら教皇ピウス12世ウスタシャとの関係を絶つ事を拒否し1943年に再びパヴェリッチと面会したピウス12世はパヴェリッチを受け入れた事を批判され英国外務省非公開メモにはピウス12世は「我々の時代で最も偉大な道徳上の臆病者だ」と書かれてあった。この部分では、バチカンウスタシャクロアチア共産主義打ち負かし第一次世界大戦より以前正教会改宗していた約20万人多くカトリックの再洗礼受けさせることを望んでいた。 アロイジエ・ステピナツ大司教1934年叙階された時に世界最年少司教だった。彼は大司教になった直後バチカンから僅かの案内し受けずウスタシャ台頭に対してどう対処するかについて大きな余裕与えられた。彼のより低い立場司教聖職者達は彼と同じ感覚共有していなかった。ステピナツ1941年5月ウスタシャから距離を置こう試み始めた1941年の夏と秋にウスタシャ殺人が「急激に増加」すると、ステピナツ教会ウスタシャへの協力について「厳しい批判」に晒されたが、「ウスタシャとの関係はまだ途絶えていなかった」。ステピナツウスタシャ立場を「都合良く解釈」し、「限られた返答結論出した」。 ステピナツカトリッククロアチアへの希望共有しユーゴスラビア国家は「クロアチア民族監獄」だと見ていた。バチカンステピナツ程には熱心ではなく、ジュゼッペ・ラミロ・マルコーネを教皇訪問者(Apostolic visitor)として派遣しただけで公式にはウスタシャ承認しなかった。ステピナツ教皇ピウス12世とパヴェリッチとの会談設定してこの行程満足し、これを「事実上」の承認として、マルコーネは名目上教皇大使に過ぎない見ていた。

※この「建国と承認」の解説は、「カトリック聖職者のウスタシャへの関与」の解説の一部です。
「建国と承認」を含む「カトリック聖職者のウスタシャへの関与」の記事については、「カトリック聖職者のウスタシャへの関与」の概要を参照ください。

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