建国とハーシム朝時代とは? わかりやすく解説

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建国とハーシム朝時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/21 15:13 UTC 版)

ヒジャーズ王国」の記事における「建国とハーシム朝時代」の解説

ヒジャーズ王国創始者フサイン・イブン・アリーであり、彼はイスラム教創始者であるムハンマドの子孫に当たり、13世紀からヒジャーズ地域エジプトオスマン帝国属国として支配してきたハーシム家一族である。彼は青年トルコ党によりマッカメッカ)の太守シャリーフ)に任命され次第頭角現していった。こうして第一次世界大戦中1915年にはイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンと「フサイン=マクマホン協定」を結び、ついにオスマン帝国に対して反旗を翻したアラブ反乱)。このようなイギリスからの支援もあって、1916年ヒジャーズ王国建国された。 フサインは「アラブ人の王」を称した。これは、自身こそがアラブ地域全体の王になるにふさわしいと宣言している訳だが、建国当初実効支配していた領域紅海沿岸ヒジャーズ地域のみであった。またイギリスフサイン=マクマホン協定ではアラブ国家建設支持していたものの、その後結んだサイクス・ピコ協定アラブ地域分割決めたこともあって、フサインアラブ地域全体統一した形でアラブ国家建設することを望んでいなかった。このような背景から「アラブ人の王」を名乗るものの、実体はあくまでトルコ主権下でのメッカシャリーフ自治領独立して王国称しただけにすぎなかった。 フサインはさらに、1924年カリフ即位する。これはトルコ共和国最後のカリフ廃位されたことを受けて行動であった。しかし、一地方政権の王に過ぎないにもかかわらず全世界スンナ派ムスリム精神的支柱であるカリフ即位したことは「僭称」と受け取られヒジャーズだけではなくアラブ地域全体有力者層の猛反発怒りを買い、フサイン孤立する。そして、このような状況の中で、長年にわたり対立してきたワッハーブ派イブン・サウード率いナジュド・スルタン国ヒジャーズ王国攻め入ると、フサイン退位させられ息子のアリー・イブン・フサイン(英語版)に譲位しキプロス島亡命することとなった。 後を継いだアリーイブン・サウードとの和睦試みるも失敗し本拠地であるマッカ失った上、1925年には残るマディーナメディナ)とジェッダ陥落するアリー一族とともにイラク逃れ、ここにハーシム家ヒジャーズ支配終わりを告げ独立王国王として2代9年終焉迎える。なお、ヒジャーズ領のうち、イギリス軍防衛するアカバのみはヨルダン併合される

※この「建国とハーシム朝時代」の解説は、「ヒジャーズ王国」の解説の一部です。
「建国とハーシム朝時代」を含む「ヒジャーズ王国」の記事については、「ヒジャーズ王国」の概要を参照ください。

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