ビーティヒハイム市区
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「ビーティッヒハイム=ビッシンゲン」の記事における「ビーティヒハイム市区」の解説
ビーティヒハイムは、789年に Budinc-heim という表記で初めて文献に記録されている。しかしこれよりもかなり以前から集落は形成されていたと考えられる。自然の徒渉地に近い交通上の良い立地により利益を得ていた。3世紀まで徒渉地はコレギウム・マティソネンジウムとともにメッター川河畔の土地領主の共同体であった。5世紀から7世紀の墓地は、現在の市域がアレマン人の集落であったことを証明している。 13世紀に、現在の市教会とケルター(ブドウ搾り所)の場所にビーティヒハイム城が建設された。この城は多くの共同相続人の間で分割され、その塔(1542年に倒壊)が市の紋章に描かれている。フェニンゲン家やそれに打ち勝ったレンミヒハイム家との抗争では、ヴュルテンベルク伯が領主として抗争を制覇した。戦略上重要なエンツ川の徒渉地を軍事的に防衛するための最前線とするために、ヴュルテンベルク伯エーバーハルト2世(ドイツ語版、英語版)が1364年にビーティヒハイムに都市権を授けた。15世紀から16世紀に盛んになったワイン造りとそれに伴うワイン取引が、市民の富の財源となり、街の発展の経済的基盤となった。この街はその後ヴュルテンベルクの地方行政都市(アムト所在地)に発展した。1600年以後そのアムト管轄地域には、ビーティヒハイムの他に、メッターツィンメルン、グロースインゲルスハイム、クラインインゲルスハイムが属した。この他に、レヒガウのヴュルテンベルク部分もビーティヒハイムのアムトに属した。 三十年戦争は、ネルトリンゲンの戦い(1634年)後、それに続くペスト、占領軍の暴力、飢餓によりこの街に劇的な人口減少をもたらした。それは1800人が200人ほどに減る激烈さであった。その少し後、プファルツ継承戦争やスペイン継承戦争によるフランス軍来襲はさらなる衰退を招いた。1704年からこの街は、新たに建設されるルートヴィヒスブルク宮殿(ドイツ語版、英語版)の「建設援助」都市となり、これにより邦有製磁工場などの新設が行われた。多くのビーティヒハイム市民がこの建設に巻き込まれ、賦役に就かなければならなかった。1718年に建設された宮廷・行政都市ルートヴィヒスブルクは、近隣都市のマールバッハ、ビーティヒハイム、マルクグレーニンゲンの極めて強力な地域的競合相手となった。ワイン価格の下落が、持続的な景気低迷状態から当面解放されそうにないこの街の困難な経済状況を一層深刻化した。 18世紀の終わり頃、工業化の始まりに伴って、生活状況や人口増加の改善が見られるようになった。ヴュルテンベルク王国建国の年(1806年)にオーバーアムト・ビーティヒハイムが創設されたが、早くも1810年に廃止された。この行政刷新により、本市とそのアムトに属す町村は、オーバーアムト・ベージヒハイムに統合された。その後、ビーティヒハイムは1847年10月11日に王立ヴュルテンベルク邦有鉄道の新設路線で鉄道網に結ばれた。その駅は、ヴェストバーンと高架で接続する重要な乗換駅に発展し、正真正銘のブレークスルーを経て持続的振興に向かった。19世紀末には、人口は3,800人となった。1930年、メッターツィンメルンが自発的にビーティヒハイムに合併した。1938年にオーバーアムト・ベージヒハイムは廃止され、ビーティヒハイムは、新設されたルートヴィヒスブルク郡に属すこととなった。 NSDAPのビーティヒハイム支部グループは1928年に設立された。このグループは、1933年までは党員数51人と比較的小さな集団であったが、ナチ党の権力掌握後181人の新規党員を迎え飛躍的に大きな集団となった。その後も党員数は確実に増加して行ったが、その数は少しずつであった。ナチ政権崩壊時点で、ビーティヒハイムには最終的に939人の党員がいた。これは1945年の総人口の 10.4 % にあたる。 1941年のソ連攻撃後、ビーティヒハイムには、逃げてきた数千人の人々を収容するための中心的な通過収容所が設けられ、ここで強制労働に「再分配」された。疾病者や働けない人々は、いわゆる「患者収容所」(これは殺害施設の婉曲表現であった)に運ばれた。少なくとも198人がここで命を落とし、プフォルツハイマー通りの聖ペーター墓地に埋葬された。収容所の収容者たちは主にガイスハルデの防空陣地建設に従事させられた。 第二次世界大戦でこの街は、鉄道高架橋に何度も爆撃を受け、19人の市民と5人の兵士が死亡したが、それ以上の大きな被害を受けることなく切り抜けた。ビーティヒハイムは約 2 % が破壊された。1945年4月、エンツ川は、10日間にわたって枢軸軍と連合軍と間の前線となった。この街は戦後、アメリカ管理地区(ドイツ語版)の一部となったため、1945年に新設されたヴュルテンベルク=バーデン州(ドイツ語版、英語版)に属した。この州は、1952年に現在のバーデン=ヴュルテンベルク州となった。戦後この街は、14,000人から現在の約43,000人へと大きな人口増加を経験した。これは主に地域再編と、難民や移住者が比較的多く流入したことによる。ビーティヒハイム市の人口は1960年代に2万人を突破した。これを承けて市当局は大規模郡都市への昇格を申請し、バーデン=ヴュルテンベルク州政府は1967年1月1日に発効させた。1975年1月1日、ビシンゲンと合併した。
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