代の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 05:10 UTC 版)
321年、平文帝鬱律が惟氏に殺されると、惟氏の子の拓跋賀傉が即位するが、まだ自ら政務ができないので代わりに惟氏が政務を執り行った(そのため当時は女国と呼ばれた)。324年、賀傉が親政を始めるが、諸大人はまったく帰服しないので、賀傉は東木根山に遷都した。325年、賀傉が卒去し、代わって弟の拓跋紇那が立った。 327年、羯族の石勒は石虎を遣わし、5千騎を率い辺部に来寇、代王の拓跋紇那はこれを句注陘北で防ぐが、不利となり、大寧に遷都する。時に拓跋翳槐は妻の一族である賀蘭部にいた。拓跋紇那は遣使を送り救援を求めるが、賀蘭部の帥の賀蘭藹頭は救援の派遣をしなかった。拓跋紇那は怒り、宇文部並びに軍勢を召して賀蘭藹頭を撃つが、宇文の衆は敗れ、紇那は大寧に帰る。329年、拓跋紇那は宇文部へ亡命した。賀蘭部及び諸部大人は、拓跋翳槐を共立し、翳槐は代王となる。石勒は遣使を送り和親を求め、拓跋翳槐は弟の拓跋什翼犍を襄国に遣わした。335年、賀蘭藹頭は臣職を修めず、拓跋翳槐が召してこれを殺したので、国人はふたたびふた心を持つ。拓跋紇那は宇文部から戻ったので、諸部大人はふたたびこれを奉じ、拓跋紇那は復位した。拓跋翳槐は鄴へ亡命し、337年、石虎は将の李穆を遣わし5千騎を率い拓跋翳槐を大寧で引き入れる。国人の六千餘落は拓跋紇那に叛き、拓跋紇那は慕容部へ亡命。拓跋翳槐は復位した。新しく故城の東南10里に在る盛楽城に遷都した。復位1年で卒去し、弟の拓跋什翼犍が後を継いだ。
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