代を伐つ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 16:02 UTC 版)
勇敢にして力が強く、座ったままで奔牛を制する程の力を持ち、さらに鉄板を穿つ程の射術を持っていた。 時期は不明だが、安北将軍・幽州刺史に任じられ、行唐公に封じられた。 376年10月、前秦君主苻堅より北討大将軍に任じられ、幽州・冀州の兵10万を率いて代の攻略を命じられた。また、并州刺史倶難・鎮軍将軍鄧羌・尚書趙遷・李柔・前将軍朱肜・前禁将軍張蚝・右禁将軍郭慶らが東は和龍より、西は上郡より出陣し、総勢20万の兵が苻洛軍に合流した。苻洛は鉄弗部大人劉衛辰を嚮導(行軍の案内役)とし、代へ侵攻した。 11月、代王拓跋什翼犍は白部・独孤部に迎撃を命じたが、苻洛はいずれも撃破した。さらに、南部の大人劉庫仁は10万の兵を率いて苻洛を阻んだが、苻洛はこれにも大勝した。その為、拓跋什翼犍は諸部を率いて陰山の北へ逃走したが、高車の反乱に遭ったので漠南まで撤退した。12月、苻洛は軍を一旦後退させ、君子津に駐屯した。これを受け、拓跋什翼犍は雲中へ帰還したが、間もなく子の拓跋寔君に殺害されてしまった。その為、代の王族や官僚は前秦軍へ亡命すると、事の次第を告げた。これを聞いた苻洛は、李柔と張蚝に兵を与えて雲中へ急行させた。君主不在の代国に抗う力は無く、軍は逃潰してしまった。これにより、苻洛は代の併呑を成し遂げた。功績により、征北将軍を加えられた。 拓跋什翼犍の諸子には拓跋窟咄という人物がおり、立派に成長していた。その為、苻洛は彼を長安に遷らせると、同時に苻堅へ書を送り、拓跋窟咄を太学に入れさせた。
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