代付
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)
代付(しろつけ)とは日本刀の標準評価額のこと。鑑賞目的の骨董品ではなく、兵器たる刀としては、村正は戦国時代で最高級のブランドの一つだった。 古刀(1596年までの刀)の中では、正宗などは「無代」(高すぎて値を付けられない)とされる。それとは逆に村正を含む末古刀期(1461-1596年)の刀は、戦国時代では「現代刀」と見られ、当時としては安価な方だった。しかし、和泉守兼定(二代兼定、之定)はそのような時代でも高価なことで有名で、後世では「千両兼定」と俗に知られている。これは白髪三千丈の類の大袈裟な誇張表現で、現実には江戸初期では15両から20両程度だが、とはいえ和泉守兼定が同時代で群を抜いて高額なことは間違いない。そして、村正は、最盛期の代で比べればその和泉守兼定と同等かやや上、全ての代を平均して比べると和泉守兼定個人より下、という評価である。 村正は『如手引集』の慶長15年(1610年)の奥書がある写本で既に代付を記されている。ここでは、村正、兼元(関の孫六)、義助、相州広正、三州長吉(平安城長吉の五代目)が金一枚(10両)、和泉守兼定、宇多国宗、藤島(藤島友重)が金二枚(20両)とされていて、村正は兼定らの半額となっている。注意すべき点は、和泉守兼定(二代兼定)個人と全ての代の村正を比べていることである。本間薫山は、この代付を一応は尤もとしつつも、宇多国宗と藤島については初代らの評判が引き継がれているだけであって、村正と同時代で比べれば村正と同じぐらいかそれに劣るし、和泉守兼定についても、もし村正の佳作と比べるなら、同額が妥当だろう、としている。 万治4年(1661年)初版、元禄15年(1702年)再刊の刀剣書『古今銘尽』第8巻では、村正「代金一枚程」(10両)、師の平安城長吉も同じく「代金一枚程」(10両)、之定(和泉守兼定、二代兼定)「代金一枚五両程」(15両)となっている。村正は兼定の2/3の代付と若干低いが、『如手引集』と同じく、村正は全ての代の平均、兼定は二代目個人の比較となっている。 当時、刀剣界では戦乱の需要に応えて数打物という安物の粗製乱造品も世に出回っていたが、村正は数打物を打たなかったため、一種の品質保証があった(「桑名打」という桑名産の贋作の数打物があるが、それは村正の作ではなく、村正から数百年後の幕末・明治に、古刀写しの名人三品広房らが打ったものである)。 村正の各代ごとの評価の違いでは、藤代義雄が名工とその作を上から「最上作」「上々作」「上作」「中上作」「中作」に分けた位列では、大永(1521-1528年)の村正が末古刀最上作で最も高く、永正(1504-1521)の村正は末古刀上々作、弘治(1555-1558年)の村正は末古刀中上作である。 1969年版『刀剣要覧』の標準価格表では、文亀(1501-1504年)の頃の代の村正が500万円、大永(1521-1528年)450万円、天文(1532-1555年)350万円、天正(1573-1593年)200万円と、1530年を境に評価額が低くなっている。比較として同じ末古刀の代表的刀工を見ると、右京亮勝光500万円、二代兼定(和泉守兼定、之定)450万、与三左衛門尉祐定450万円、孫六兼元(いわゆる関の孫六)400万円、平安城長吉(初代)400万円である。文亀の代の村正と大永の代の村正については、和泉守兼定と同じかそれより若干高額に評価されていることになる。
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