共産党議長に就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:02 UTC 版)
「エルンスト・テールマン」の記事における「共産党議長に就任」の解説
左派のトロツキーとの闘争から右旋回したスターリンの影響を受けてコミンテルンは、1925年に再び「統一戦線戦術」をとるべきことをドイツ共産党に命じた。フィッシャーやマズローはコミンテルン方針に従ったものの、スターリンから忠誠を疑われ、その圧力で1925年秋に失脚した。一方テールマンは、フィッシャーやマズローと手を切ってスターリンに絶対忠誠を誓う左派の派閥(親コミンテルン左派)のリーダーとなり、スターリンの後援を受けて、1925年10月に党議長に就任した。 議長就任から2、3年間のテールマンの党指導は、親コミンテルン左派を中心としつつ、エルンスト・マイヤーら調停派(中間派)も指導部に取り込んで、ブランドラーあるいはフィッシャーの「左右の行き過ぎ」を避けて中間的な路線を取り、反対派(特にフィッシャーら左派反対派やショーレムら極左反対派)を抑えこむものだった。この路線は1928年から1929年頃に極左路線へ転換するまで維持された。この中間路線はトロツキーとジノヴィエフに対する闘争でブハーリンら右派の協力を得ながらも左派回帰の可能性も閉ざしていなかったスターリンの方針に並行するものだった。
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