共産党青年団・少年団による徴発と弾圧
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「ホロドモール」の記事における「共産党青年団・少年団による徴発と弾圧」の解説
「コムソモール」および「ピオネール」を参照 農民からの徴発には、15歳から35歳の若者で組織されたコムソモール(共産主義青年団)や、10歳から15歳までの児童で組織されたピオネール(共産党少年団)が動員された。 都市から農村へ派遣された労働者や党メンバーから構成されたオルグ団は空中パトロールで畑を監視し、農場にはコムソモールのメンバーが見張りに送り込まれた。告発が奨励され、子供が肉親を告発して、食物や衣類やメダルが与えられた。コルホーズ財産保全法が発効すると、ウクライナ各地の畑には監視塔が設置され、オデッサでは700の監視塔が設置された。 当時、コムソモールは共産党への奉仕組織であり、汚職を告発するスパイと密告者の養成機関でもあった。コムソモールはかたっぱしから農家を捜索し、穀粒にいたるまで持っていき、調理中の夕食まで持っていった。青年団の徴発部隊は、農民同士にボクシングや犬のまねをさせたり、盗みを働いたとされた女性を裸にして村中を引き回した。徴発部隊は、ひとり暮らしの女性の住居に「穀物徴発」の名目で夜間に侵入し、強姦した。こうした農民への虐待は、革命的かつ進歩的な「人民の敵」との戦争(階級闘争)であるとして正当化された。コムソモールでは、家族への愛情よりも、革命への忠誠心が優先され、親や教師のなかに紛れ込む「階級の敵」の摘発が義務とされ、大学や学校では「反革命派」を裁いた。当時農家を「告発」していった若者たちは、1905年-1915年生まれの世代で、「革命」の英雄時代に対して極度にロマンチックなイメージを抱いており、ブルジョワ的な富と娯楽と私有財産を徹底的に拒否し、個人の幸福にこだわることは恥とみなし、コムソモールメンバーであることは輝かしい社会貢献とみなされた。この世代のチェーカーの一人は、父親の金物店を捜索し、その財産を押収した。 また、ピオネール(共産党少年団)の子供50万人も「共産党の目と耳」になることを命じられ、畑を監視し、穀物を盗むクラークと戦っているとされた。ピオネールは、二、三個のとうもろこしを拾った女性を逮捕して極北の強制収容所に収容し、クゥバーニ川のウスト・ラビンスクのコルホーズでは、盗みの疑いのあるクラーク住民のリストを報告するなど、各地でクラークを逮捕し、そのたびに表彰された。少年パブリク・モローゾフは、ゲラシーモフカ村の村ソヴィエト議長の父をクラークとして告発し、父親は労働収容所に送られた。パブリクは叔父たちに殺害されたが、死後英雄として表彰された。1934年には、穀物を隠し持っている親を通報した児童が続々と表彰された。 しかし、こうした徴発を強化しても、収穫高があがることはなかった。1932年10月には、スターリンに忠実なモロトフでさえ、割り当てを減らすよう進言した。
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