共産党闘士時代とは? わかりやすく解説

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共産党闘士時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 04:43 UTC 版)

田中清玄」の記事における「共産党闘士時代」の解説

1927年4月東京帝国大学入学亀井勝一郎とともに新人会入会島野武(のち仙台市長)・大山岩雄・佐多忠隆田中稔男武田麟太郎藤沢桓夫大宅壮一とであう。清玄はのち大宅にも世話になり、大宅文庫設立のときに拠出金出した同年9月日本共産党入党活動用のペンネームは〈山岡夫〉(山岡鉄舟にちなむ)だった。空手部にも入部渡辺政之輔からオルグ指導を受け、東京第3地区委員長になる。1929年東大文学部中退1928年三・一五事件1929年四・一六事件による党指導部崩壊をうけ、モスクワから帰った佐野博田中前納四郎東京合同労組フラクション)が指導部構成し同年7月頃党を再建する。これ以降の3者指導下の党は通称武装共産党」と呼ばれる1930年1月和歌山二里ヶ浜日本共産党再建大会田中はこれをきっかけに、コミンテルン国際連絡機関で中国共産党経由したオムスルートつかって資金情報収集始め当時コミンテルン執行委員会書記長並びにフィンランド共産党創立者オットー・クーシネンコミンテルン極東部長カール・ヤンソンとも連絡をつける。 資金得た田中は、党の武装化進め川崎武装メーデー東京市電争議の際における幹部暗殺計画車庫放火事件中央メーデー暴動化、小銃弾類の略奪計画など数多く暴動既遂未遂した。 同年2月26日和歌浦共産党官憲銃撃戦になった和歌浦事件起きる。直後清玄の母が自決遺書に「おまえのような共産主義者出して、神にあいすまない自分は死をもって諌める。おまえはよき日本人になってくれ。私の死を空しくするな」とあり、子のための諌死だった。清玄衝撃を受け、苦悶するも、活動休止せずに、同年5月田中日本共産党代表として、バイオリストに身をなりすましコミンテルン極東ビューローのあった上海渡航同年7月14日治安維持法違反逮捕

※この「共産党闘士時代」の解説は、「田中清玄」の解説の一部です。
「共産党闘士時代」を含む「田中清玄」の記事については、「田中清玄」の概要を参照ください。

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