共産党闘士時代
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1927年4月、東京帝国大学入学。亀井勝一郎とともに新人会入会。島野武(のち仙台市長)・大山岩雄・佐多忠隆・田中稔男・武田麟太郎・藤沢桓夫、大宅壮一とであう。清玄はのち大宅にも世話になり、大宅文庫設立のときに拠出金を出した。同年9月、日本共産党入党。活動用のペンネームは〈山岡鉄夫〉(山岡鉄舟にちなむ)だった。空手部にも入部。渡辺政之輔からオルグの指導を受け、東京の第3地区委員長になる。1929年東大文学部中退。 1928年の三・一五事件、1929年の四・一六事件による党指導部の崩壊をうけ、モスクワから帰った佐野博と田中、前納善四郎(東京合同労組フラクション)が指導部を構成し、同年7月頃党を再建する。これ以降の3者指導下の党は通称「武装共産党」と呼ばれる。 1930年1月、和歌山二里ヶ浜で日本共産党再建大会。田中はこれをきっかけに、コミンテルン国際連絡機関で中国共産党を経由したオムスのルートをつかって、資金・情報収集を始め、当時のコミンテルン執行委員会書記長並びにフィンランド共産党創立者オットー・クーシネン、コミンテルン極東部長カール・ヤンソンとも連絡をつける。 資金を得た田中は、党の武装化を進め、川崎武装メーデー、東京市電争議の際における幹部暗殺計画、車庫放火事件、中央メーデー暴動化、小銃弾薬類の略奪計画など数多くの暴動を既遂未遂した。 同年2月26日に和歌浦で共産党と官憲が銃撃戦になった和歌浦事件が起きる。直後、清玄の母が自決。遺書に「おまえのような共産主義者を出して、神にあいすまない。自分は死をもって諌める。おまえはよき日本人になってくれ。私の死を空しくするな」とあり、子のための諌死だった。清玄は衝撃を受け、苦悶するも、活動を休止せずに、同年5月、田中は日本共産党代表として、バイオリストに身をなりすまし、コミンテルン極東ビューローのあった上海に渡航。同年7月14日、治安維持法違反で逮捕。
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