フィンランド共産党とは? わかりやすく解説

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フィンランド共産党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/18 03:55 UTC 版)

 フィンランドの政党
フィンランド共産党

Suomen Kommunistinen Puolue
Finlands kommunistiska parti
創立 1918年8月29日 (1918-08-29)
解散 1992年
分離元 フィンランド社会民主党
合併先 左翼同盟
青年部 Suomen kommunistinen nuorisoliitto(SKNL)
政治的思想 マルクス・レーニン主義
ユーロコミュニズム
Taistoism(minority)
国内連携 SKDL
国際連携 コミンテルン
公式カラー red
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フィンランド共産党(フィンランドきょうさんとう、フィンランド語: Suomen Kommunistinen Puolue、スウェーデン語: Finlands kommunistiska parti、略称:SKP)は、フィンランドにかつて存在した共産主義政党

コミンテルン支部として発足したが、1944年までフィンランド国内では非合法とされていた。そのため、1920年代にはフィンランド社会労働党(1920年 - 1923年)並びに社会主義労農選挙団(1924年 - 1930年)へ参加(その後、両者は何れも政府により活動が禁止)。1944年には新たな前衛組織として、フィンランド人民民主同盟(SKDL)を結成するに至る。

歴史

結党から活動初期

1918年フィンランド内戦にて、労働者農民らから構成される左派赤衛軍が敗北。フィンランド社会民主党は赤衛軍を支援していたため、一部の党幹部がソビエト連邦亡命し、そのうち数名がモスクワにて結党した。

フィンランド国内では1944年まで非合法とされており、同年傘下組織としてフィンランド人民民主同盟が結成され、継続戦争以後はSKPが同盟を取り仕切る事となる。

冷戦期

1944年から1979年にかけて、SKDLの支持率が17%から24%もあり、冷戦期に「黄金時代」を迎えた。1945年に行われた戦後初の議会選挙では、51議席を得て第一党に躍進[1]与党となる事も数度あり、内閣12閣僚のうち8閣僚を送り出すに至るも[1]、共産系の首相大統領は誕生していない。

1960年代半ばには、アメリカ合衆国国務省が党員数を約40000名と推計している(当時の労働人口の1.44%に当たる)[2]。しかし、少数派のスターリン主義者(タイストイスト)による内部抗争のため、次第に地盤を失うと共に弱体化。タイストイストが党のユーロコミュニズム寄りの姿勢をしばしば攻撃するなど、党内にしこりを残す結果となった。

1985年から翌年にかけては、タイストイスト多数の他、数百もの党組織や数千名もの党員が除名を余儀無くされる。除名者はフィンランド共産党 (統一派)(SKPy)を結成するに至った。

解党

ソビエト連邦の崩壊に伴い、党内でもイデオロギー的対立が深まり、内部抗争が激化。1990年には、大多数の党員やSKDLの関係者が左翼同盟を結成するに至る。このため、1992年に財政破綻を来たした末、解散となった。

なお、SKPyはSKP解散後も存続し、1997年に「フィンランド共産党」と改名するものの、議会において嘗てSKPが擁していた議席を取り戻せていない。2007年の選挙における得票率は0.7%であった。

歴代党首

議長
イリョ・シロラ 1918年 - 1920年
クレルヴォ・マンネル 1920年 - 1935年
ハンネス・マキネン 1935年 - 1937年[3]
ユッカ・レートサーリ 1937年 - 1938年[3]
アイモ・アールトネン 1944年 - 1945年
アーロ・ウーシタロ 1945年 - 1948年
アイモ・アールトネン 1948年 - 1966年
アールネ・サーリネン 1966年 - 1982年
ヨウコ・カヤノヤ 1982年 - 1984年
アルヴォ・アールト 1984年 - 1988年
ヤールモ・ワールストム 1988年 - 1990年
ヘルヤ・タミソラ 1990年 - 1992年
    書記長
アルヴォ・トゥオミネン 1935年 - 1940年
ヴィレ・ペシ 1944年 - 1969年
アルヴォ・アールト 1969年 - 1977年
エーキ・キヴィマキ 1977年 - 1981年
アルヴォ・アールト 1981年 -1984年
アールノ・アイタムート 1984年 - 1985年
エスコ・ヴァイニオンパ 1985年 - 1988年
ヘルヤ・タミソラ 1988年 - 1990年
アスコ・マキ 1990年 - 1992年

関連団体

青年組織としてフィンランド共産主義青年同盟(SKNL、1925年 - 1936年)が存在。第二次世界大戦後はフィンランド民主青年同盟(SNDL、世界民主青年連盟加盟)と名を変え活動を行った。

日本共産党との関係

1983年6月19日から22日にかけて、日本共産党不破哲三委員長(当時)を団長とする代表団が訪芬、アルヴォ・アールト議長と初の公式会談を実施[4]。一方、SKPも1985年日本共産党第17回大会に来賓として出席している[5]

脚注

  1. ^ a b 石垣 泰司『戦後の欧州情勢の変化とフィンランドの中立政策の変貌』 外務省調査月報 2000/No.2
  2. ^ Benjamin, Roger W.; Kautsky, John H.. Communism and Economic Development, in The American Political Science Review, Vol. 62, No. 1. (Mar., 1968), pp. 122.
  3. ^ a b Joni Krekola: Stalinismin lyhyt kurssi (SKS 2006), p. 108.
  4. ^ 日本労働年鑑 第55集 1985年版 第二部 労働運動 XIV 政党 法政大学大原社会問題研究所
  5. ^ 日本労働年鑑 第57集 1987年版 第四部 労働組合と政治・社会運動 III 政党の動向 法政大学大原社会問題研究所

関連項目

外部リンク




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