フィンランド軍の改革
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「カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム」の記事における「フィンランド軍の改革」の解説
1929年、フィンランドの農民が左翼政党に反対したラプア運動が広まり、フィンランド共産党が非合法化された。マンネルヘイムは当初はラプア運動を認めていたが、事実上の軍事独裁者になって欲しいとの申し立てを拒んだ。ラプア運動はストールベリの誘拐などの暴力手段をとり、マンネルヘイムを含む多数の支持を失った。1931年にペール・スヴィンヒューが大統領となり、マンネルヘイムをフィンランド国防委員会の議長に指名した。そして戦争になった場合は、マンネルヘイムがフィンランド軍の最高司令官となることが決められた。スヴィンヒューのあとを継いだキュオスティ・カッリオもまた1937年にこの約束を更新した。1933年、スヴィンヒューによってマンネルヘイムは陸軍元帥(sotamarsalkka, fältmarskalk)に昇進した。 マンネルヘイムはフィンランドの軍需産業を支援し、叶わなかったもののスウェーデンとの軍事同盟を得ようとした。フィンランド軍の近代化と軍組織の刷新に取り組み、カレリアの防御線の作成や空軍の導入を実施した。1934年に動員の仕組みを改めることで常備軍の対応速度を早め、有事には最大で人口の8.6%にあたる31万5000人を動員する計画が策定された。国民に対して防衛力の必要性について理解を深める活動も行ったが、不況と防衛に対する閣僚との意見の食い違いで予算は不足した。防衛予算の増強を求める彼の意見は内閣と様々な点で折り合わず、何度も辞表にサインした。
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