フィンリーとマスターシュ・ギャング
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 23:07 UTC 版)
「オークランド・アスレチックス」の記事における「フィンリーとマスターシュ・ギャング」の解説
成績の低迷が続き観客動員でも苦しむようになったアスレチックスは、1955年に本拠地をカンザスシティに移す。戦績は相変わらず伸びなかったが、移転1年目には初めて100万人を動員することができた。 シカゴの保険業をしていたチャーリー・O・フィンリーがアスレチックスを買収したのは1960年のことである。フィンリーは奇抜なアイデアを次々と出した。1963年には、黄色(公式には金色と呼称)のユニフォームを採用。それまで、MLBでもユニフォームといえば白・グレー・黒だけだっただけに、当時としては極めて斬新であった(のち1972年にはグリーンのユニフォームを採用)。チームは1968年に現在の本拠地であるカリフォルニア州オークランドに移転。1970年代に入るとDH(指名打者)制を提案し、ア・リーグはこのフィンリーの案を満場一致で受け入れ、1973年よりDH制を採用した。当時、ワールドシリーズは全てデーゲームで行われていたが、初めてナイトゲームで開催。他にも、「四球」ではなく「三球」で出塁というルールや、カラーボールの採用を提案し、オープン戦では実行したが、受け入れられなかった。また、この当時すでに地元メディアにインターリーグの構想を提唱していた。チームにおいても、選手に長髪と口ひげを伸ばすことを奨励。童顔だったロリー・フィンガースはカイゼル髭を蓄えた。 2地区制が始まった1969年以降、チームは長かった低迷期を脱しつつあった。1971年には初の地区優勝、ディック・ウィリアムズらがチームを率いた1972年から1974年にはワールドシリーズ3連覇を成し遂げた。6度の盗塁王に輝いたバート・キャンパネリス、強打者レジー・ジャクソンが攻撃の中心だったが、一方で充実した投手陣を要し、キャットフィッシュ・ハンター、ヴァイダ・ブルー、ケン・ホルツマンの3本柱にクローザーのローリー・フィンガーズ擁する投手陣は安定感抜群であった。いかつい顔つきに性格も荒っぽい選手が揃い、皆口ひげを蓄えていたことから、チームは「マスターシュ(口ひげ)・ギャング」として恐れられた。 この頃フリーエージェント制の導入もあり、選手の年俸が高騰。最初のFA移籍となったキャットフィッシュ・ハンターがヤンキースに移籍したのを引き金に、レジー・ジャクソンらの主力選手も次々と高給を求めて移籍。また、ヴァイダ・ブルーらも放出し、チームは低迷して人気も下がり、フィンリーはチームを運営する情熱を失い、オーナー職を下りた。
※この「フィンリーとマスターシュ・ギャング」の解説は、「オークランド・アスレチックス」の解説の一部です。
「フィンリーとマスターシュ・ギャング」を含む「オークランド・アスレチックス」の記事については、「オークランド・アスレチックス」の概要を参照ください。
- フィンリーとマスターシュ・ギャングのページへのリンク