フィンランド遠征
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「ヴェストファーレン (戦艦)」の記事における「フィンランド遠征」の解説
1918年2月22日、ヴェストファーレンとラインラントはフィンランドへ行き現地に展開するドイツ陸軍を支援する任務を与えられた。当時フィンランドは内戦中であった。2隻は2月23日に第14猟兵大隊を乗せ、翌日早くにオーランド諸島へ向け出発した。オーランド諸島は前進基地となる予定であり、そこからハンコの港を制圧し、次いで首都ヘルシンキを攻撃することになっていた。任務部隊は3月5日にオーランド諸島に到着したが、そこでスウェーデンの海防戦艦スヴァリイェ、トール、オスカー2世と遭遇した。交渉の結果ドイツ兵は3月7日にオーランドに上陸し、ヴェストファーレンはダンツィヒに戻った。 3月31日までダンツィヒにとどまり、それからヴェストファーレンは戦艦ポーゼンと共にフィンランドへ向かい、4月3日にハンコの外延部の防御拠点であるRussaröに着いた。ドイツ陸軍はすぐに港を掌握した。それから任務部隊はヘルシンキへ向かった。4月9日、侵攻部隊を組織するためヴェストファーレンはレバル沖で立ち止まった。2日後、ヴェストファーレンはヘルシンキの港に入って兵士を上陸させ、その前進を主砲で援護した。3日以内で赤衛軍は撃破された。ヴェストファーレンは白衛軍が4月30日までヘルシンキにとどまった。そのときまでにフィンランドを統治する白衛軍の政府ができていた。 この作戦後ヴェストファーレンは北海に戻り、第1戦艦戦隊に復帰した。8月11日、ヴェストファーレン、ポーゼン、カイザー、カイゼリンは哨戒部隊支援のためテルスヘリングへ向かった。その途中でヴェストファーレンのボイラーに重大な損傷が発生し速力が16ノットに低下した。帰還後ヴェストファーレンは退役し、砲術練習艦となった。
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フィンランド遠征
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「ラインラント (戦艦)」の記事における「フィンランド遠征」の解説
1918年2月22日、ラインラントと戦艦ヴェストファーレンはフィンランドに展開予定のドイツ陸軍部隊を支援する任務を命じられた。3月6日にオーランド諸島に到着。4月11日、ヘルシングフォシュへ向け出発。その後は燃料補給のためダンツィヒへ向かう予定であった。しかし、途中で濃霧に遭遇し、7時30分にLagskär島に座礁した。この事故で二人が死亡し、艦も大きく損傷した。3つのボイラー室が浸水し、内殻にも穴が開いた。4月18日から4月20日に離礁が試みられたが失敗した。前弩戦艦シュレジエンを現役に復帰させるため、乗員は一時的に艦を離れた。5月8日に浮きクレーンがダンツィヒから到着し、主砲や装甲版が取り外された。ラインラントは、通常の排水量の3分の1以上にあたる6400メトリックトン軽くなり、浮き箱の助けも借りて7月9日にようやく離礁した。ラインラントとはマリーハムンへ曳航され、そこでいくらかの修理がなされた。7月24日、2隻の曳船の助けを借りてラインラントはキールへ向かった。キールには3日後に到着した。修理するのは現実的ではないとされ、ラインラントは10月4日に退役しキールで兵舎とされた。
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