共産化への道(1945年-1948年)
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「チェコの歴史」の記事における「共産化への道(1945年-1948年)」の解説
1945年、ナチス・ドイツの敗走の結果、ソ連軍によって国土の大半が「解放」される。スロヴァキア東部の都市コシツェで、「コシツェ綱領」が発表され、エドヴァルド・ベネシュを中心とするロンドン亡命政府と共産党との連立政府が発足。ベネシュ大統領の下で「東西の架け橋」を標榜する。ベネシュ大統領は、ドイツ系住民及びハンガリー系住民の市民権の剥奪と私有財産の没収を命ずる大統領令を発し、これにより領内に住んでいた250万人を超えるドイツ系住民を追放して、ドイツ人問題を「解決」した。 1946年の選挙で、共産党が第1党になるが、単独で過半数を得るには至らなかった。またスロヴァキアでは、第2党に甘んじる結果となった。それでも共産党の指導者であるクレメント・ゴットワルトを首班とする内閣が成立した。 1947年、マーシャル・プランへの参加を表明するが、ソ連の圧力で撤回する事態が生じた。当時外務大臣であり、モスクワにソ連指導部との会談に赴いたヤン・マサリクが「一国の外相としてモスクワへ行ったが、ソ連の下僕としてプラハに戻ってきた」と述べたと言われるように、日増しにソ連および共産党からの圧力が高まっていった。そして1948年2月に、非共産党系の閣僚がベネシュに辞表を提出し、ゴットワルト内閣の総辞職を目論むが、共産党は労働組合などを動員し、ベネシュに圧力をかけた。結局、ベネシュは辞表を受理し、共産党と社会民主党左派からなる政権が成立し、チェコスロヴァキアにおいて共産化が完了した(二月事件)。3月には、閣内に残っていたヤン・マサリクが外務省の敷地で遺体で発見され、秘密警察による暗殺説が囁かれるなか、政府は事故死として事件を収拾した。またベネシュは大統領職を辞し、9月3日に死去した。
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