共産化への道とは? わかりやすく解説

共産化への道(1945年-1948年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 16:57 UTC 版)

チェコの歴史」の記事における「共産化への道(1945年-1948年)」の解説

1945年ナチス・ドイツ敗走結果ソ連軍によって国土大半が「解放」される。スロヴァキア東部都市コシツェで、「コシツェ綱領」が発表されエドヴァルド・ベネシュ中心とするロンドン亡命政府共産党との連立政府発足ベネシュ大統領の下で「東西架け橋」を標榜するベネシュ大統領は、ドイツ系住民及びハンガリー系住民市民権の剥奪私有財産没収命ず大統領令発し、これにより領内住んでいた250万人超えるドイツ系住民追放してドイツ人問題を「解決」した。 1946年選挙で、共産党第1党になるが、単独過半数を得るには至らなかった。またスロヴァキアでは、第2党甘んじる結果となった。それでも共産党の指導者であるクレメント・ゴットワルト首班とする内閣成立した1947年マーシャル・プランへの参加表明するが、ソ連圧力撤回する事態生じた当時外務大臣であり、モスクワソ連指導部との会談赴いたヤン・マサリクが「一国外相としてモスクワへ行ったが、ソ連下僕としてプラハ戻ってきた」と述べたと言われるように、日増しにソ連および共産党からの圧力高まっていった。そして1948年2月に、非共産党系の閣僚ベネシュ辞表提出しゴットワルト内閣総辞職目論むが、共産党労働組合などを動員しベネシュ圧力をかけた。結局ベネシュ辞表受理し共産党社会民主党左派からなる政権成立しチェコスロヴァキアにおいて共産化完了した二月事件)。3月には、閣内残っていたヤン・マサリク外務省敷地遺体発見され秘密警察による暗殺説が囁かれるなか、政府事故死として事件収拾した。またベネシュ大統領職辞し9月3日死去した

※この「共産化への道(1945年-1948年)」の解説は、「チェコの歴史」の解説の一部です。
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