穀物徴発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:22 UTC 版)
1929年末、南ウクライナのザポリージア当局は、割当量の70-75%が中農と貧農から徴発されたもので、地元住民には1kgも残らないと報告したが、ザポリージャ州の書記は解任された。 ソ連の計画では、土地から最大限の収穫高の獲得を目的としていたが、フルシチョフは機械的な割り当てを批判した。しかし、党幹部は、農民が徴発に応じないのは意図してやっていることであると反論した。 ウクライナ共産党書記長コシオールは1930年夏、農民たちは取り入れを拒み、意図して飢饉をもたらし、ソビエト政府の首を絞めようとしている「農民たちは働いていない。彼らは、前年に収穫した穀物を穴蔵にかくし、それに頼っている。我々は、その穴蔵をどうしても開かせなければならない」と語った。そうした「穴蔵」は1920年代初めにはあったが、とうの昔になくなっていた。
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