穀物法廃止論争
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穀物法の廃止・穀物の自由貿易化は急進派(英語版)のリチャード・コブデンやジョン・ブライトなどがかねてから大衆運動を起こして要求していた(反穀物法同盟)。その運動は非常に盛り上がっていたし、ピール自身も自由貿易主義者であるから穀物法廃止には反対ではなかった。ただ保守党内の地主層への配慮から沈黙せざるをえない状況が続いていた。 その状況が変わったのは1845年から1847年にかけてアイルランドで発生したジャガイモ飢饉だった。アイルランド小作農・貧農の主食はジャガイモであったため、この飢饉はアイルランド農村社会に深刻な影響をもたらした。100万人が餓死・あるいは栄養失調の疾病で死亡し、さらに100万人が故国アイルランドを離れたといわれる。 飢饉の報告を受けたピールはただちにアメリカからトウモロコシを大量に買い付けてアイルランドに食料支援を行い、またアイルランドで公共事業を行って雇用創出を図った。だがそれだけでは十分な飢饉対策にならず、いよいよ穀物法廃止の機運が高まった。1845年11月にはホイッグ党の党首ジョン・ラッセル卿が穀物法廃止を党の方針として発表した。 ピールも1845年12月初頭から穀物法廃止を閣議で取り上げた。内務大臣サー・ジェームズ・グラハム准男爵、外務大臣アバディーン伯爵、戦争省事務長官シドニー・ハーバートら腹心閣僚は支持してくれたが、陸軍・植民地大臣スタンリー卿や王璽尚書バクルー公爵は穀物自由貿易に反対した。この二人の説得に失敗したピールは、12月6日に女王の離宮オズボーン・ハウスへ参内して総辞職を申し出、ジョン・ラッセル卿を後継の首相にすべきことを奏上した。 ホイッグ党は党首ジョン・ラッセル卿のもとで穀物法廃止の方針を打ち出したものの、これはジョン・ラッセル卿の独断的な決定であり、ホイッグ党全体のコンセンサスを得ているとは言い難かった。ホイッグ党内にも穀物法廃止に慎重な地主貴族が多数いたのである。彼らは急進派に近い自党の党首ジョン・ラッセル卿を首相にして穀物法廃止に突き進むより、「地主の政党」保守党のピールを首相のままにして「穏健な」穀物法処理を行うことを望んでいた。そのような背景からジョン・ラッセル卿は党内の支持を得られず組閣に失敗した。
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