穀物移出と東北地方の大飢饉
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「天明の打ちこわし」の記事における「穀物移出と東北地方の大飢饉」の解説
天明2年(1782年)は、西日本が不作となって米価が急上昇した。一方東北地方一帯は平年作であり、高騰した米価を見た東北地方の諸藩は争うように米を江戸や大坂に送り、利益を上げようとした。当時、諸藩は厳しい財政難に悩まされており、米価の高騰は財政難を軽減する大きなチャンスであった。また盛岡藩に広がっていた大豆栽培も、天明2年(1782年)作の大豆のその多くが大坂などに移出された。大豆は商品作物としての需要があって財政難の軽減に有効であり、農民たちにとっても現金収入が得られるため、粟や稗などといった自給自足用の作物に替わり大豆栽培を増やすようになっていた。また領主ばかりではなく農民も手持ちの米を売却するようになっていた。当時、飢饉に備えての穀物の備蓄はあまり行われておらず、天明2年の米価高騰は東北地方からの米の移出を加速させ、天明3年(1783年)を前にして救荒用の備蓄はほとんど存在しなかった。 明けて天明3年(1783年)は春先から関東から東北地方にかけて雨がちで冷涼な日々が続いた。関東では7月になると例年通りの暑さがやってきたが、東北地方の現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県では、天明3年の夏は最後までほとんど夏らしい暑さがやってくることはなかった。 天明3年は東北地方の太平洋沿岸と現在の青森県では事実上夏が来なかった。すると大飢饉発生の予感が多くの人々を突き動かした。天明3年7月には弘前藩領内で一揆、打ちこわしが頻発したのを皮切りに、盛岡藩、白河藩、仙台藩などに騒動が拡大していった。弘前藩では後述のように大飢饉発生が間近に迫っているのにもかかわらず藩当局が江戸や大坂への回米を強行しており、打ちこわし時には米価高騰への抗議とともに回米反対がスローガンとして掲げられ、仙台藩では前年の米価高騰に乗じて回米を積極的に推し進めた藩の役人宅が打ちこわされた。 各藩とも著しい天候不順による大凶作が目前に迫る中、全く対策を取らなかったわけではない。まず米を原料とする酒造の禁止、穀留という穀物の他領持ち出し禁止という、かかる飢饉の恐れがある場合にとる常套手段を行った。しかし天明3年の場合は前年の米価高騰もあって余剰の米自体がほとんどない状態であり、酒造禁止、穀留の効果はほとんど期待できないことは明らかであった。しかも弘前藩などは天候不順が続く中、天明3年7月下旬まで江戸や大坂への米の移出を続けていた。やがて極度の不作が現実のものとなる中で、各藩は領外から穀類を入手することを試みたものの、すでに穀留は広範囲に広がっており入手は極めて困難であった。天明3年の秋以降、多くの人々が飢饉に苦しみ始める中、各藩はほとんど救援の手を差し伸べることができなかった。また享保の大飢饉時には大飢饉に陥った西日本に対して、大名への拝借金、大規模な回米などといったかなり迅速かつ大規模な救援が幕府主導で実施されたが、天明の大飢饉時には幕府はわずかな大名拝借金を認めたのみで、積極的な被災地救援に乗り出そうとはしなかった。このような中、天明3年の米の作柄は弘前藩は皆無作に陥るなど惨憺たるもので、結局東北地方の太平洋側と現在の青森県では、天明3年から4年にかけて数十万人と推定される餓死者が発生した。
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