クラーク撲滅と穀物徴発の始まり
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「ホロドモール」の記事における「クラーク撲滅と穀物徴発の始まり」の解説
ロシア革命によって、地主階級は完全に消滅し、また、共同体(ミール)復活により自作農も消滅した。土地の急激な国有化によって農業生産は重大な打撃を受け、さらにロシア内戦(1917-22年)でロシア社会は疲弊した。 レーニンは、農村共同体ミールが実質的に村の指導部となったことは社会主義化を妨げるとみなし、「プチブル的地主は、土地貴族と資本家を倒すために、我々プロレタリアートと手を組むが、その後、我々とは袂を分かつ。その後、我々は断固として、容赦無く、彼らとの戦いに没頭しなければならない」と宣言した。レーニンは、反ボリシェヴィキ、反白軍の緑軍が1918年に蜂起すると、赤軍に緑軍の変装をしたうえで「10ないし20露里進むごとにクラークと司祭と地主を吊るし首にせよ。賞金は一人吊るすごとに100,000ルーヴリ」と命じた。 スヴェルドローフは1918年5月に「我々は農村を階級によって分割し、対立するふたつの勢力にわけ、富農に対する貧農階級をつくるという問題にもっと真剣に取り組まねばならばい」と演説で語り、ボリシェヴィキは農村にこれまでになかった「階級闘争」を作ることとした。 1918年5月9日に公布された食糧独占令(食料独裁令(ロシア語版))では、自由取引を禁止して農産物を国家専売とし、さらに割り当てを超えた余剰穀物の徴発権限を食糧委員会に与え、余剰穀物を保有するクラークに対する闘争のために貧農は団結しなければならないとされた。労働者からなる「食糧徴発隊」が結成され、自由に「クラーク」を逮捕し、証拠もないまま鞭打ちし、徴発した穀物でウオッカを作った。食糧徴発隊は1918年7月に1万人強だったが、1920年には45000人に増大した。 1918年6月11日には、農村に富農撲滅のためのコンベード(貧農委員会)が設置された。コンベードは共産党員や都市の労働者、および「貧農」や「農村プロレタリアート」と認定された人々によって指導され、「富農」として認定された農民の土地、食糧、家畜、武器を没収した。1918年11月には総計12万2000の貧農委員会が設置された。都市の党員で組織された活動分子(アクテヴィスト)が12万5000人以上、農村に派遣された。貧農委員会はロシアでは一時解散されたが、1920年5月9日にはウクライナで再設置された。これはやがてコムネザーム(非富裕農民委員会)として組織され、ウクライナの農村で権力を握るクラークによる盗賊的行為を根絶することを任務とした。コムネザームの指導者は多くがロシア系であり、ウクライナ語を話すものは22.7%しかいなかった。そこで都市部の党員数千人が地方に派遣された。 1918年7月には労働者を優位とし、農民の格下げを開始し、具体的には、労働者の代表者を選ぶのに25000票で足りたのに対して、農民の代表者を選ぶのに12万5000票が必要とされた(比率5対1)。 1918年8月、レーニンは富裕層から25人-30人の「人質」をとることを命令し、情報提供者には穀物を報償として与えるとした。。これらの政策は「戦時共産主義」のなかでの政策とされるが、内戦はこのときまだ本格化しておらず、レーニンはこうした農村政策によってロシアを完全に社会主義化することを意図した。
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