クラーク地区の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 08:53 UTC 版)
「ルソン島の戦い」の記事における「クラーク地区の戦闘」の解説
他方、リンガエン湾南方では、連合軍の進撃は順調であった。日本側の建武集団が防衛に当たっていたが、主に飛行場関係の防空部隊や整備要員を再編成したもので十分な戦力がなかった。 建武集団長に1945年1月8日に着任した塚田理喜智中将(第1挺進集団長兼任)は、マニラ北西100kmのクラーク地区にある13の飛行場群を防衛して、連合軍による飛行場利用をできる限り遅滞させることを目標とした。そこで、飛行場西方の平地に第一線陣地、その西約3kmの山岳地帯に第二線陣地を敷いた。さらに、そこから西約3〜9kmにわたって全周防御の複郭陣地を多数設営した。建武集団は総兵力3万人であったが、その実態はクラーク地区の陸海軍航空部隊を集成した部隊で、第10航空地区司令部隷下の9個飛行場大隊をはじめとした60以上の陸軍部隊(約11000人)と、第26航空戦隊(杉本丑衛少将)をはじめとした海軍部隊(軍人約13500人、軍属約2500人)という雑多な編制であった。有力な戦闘部隊は、第1挺進集団隷下のグライダー空挺部隊である滑空歩兵第2連隊と、戦車第2師団所属の機動歩兵第2連隊の計3000人程度であった。このほか、バターン半島の永吉支隊が指揮下にあったが、実際には独立部隊として機能していた。 対する連合軍は1月20日頃からクラーク地区に進入し、25日にアメリカ軍第14軍団(第37・第40師団基幹)により猛攻撃を開始した。圧迫された建武集団は早くも29日に第二線陣地まで後退した。30日に、アメリカ軍はストッチェンバーグ飛行場に星条旗を掲揚し、クラーク飛行場群の制圧を宣言した。アメリカ軍主力部隊はそのままマニラを目指して南進を続けた。 その後も一部の連合軍は建武集団の山岳陣地へと攻撃を続けた。激しい空襲により、建武集団の陣地付近にある森林は焼け野原となった。日本軍が戦車の進入は不可能と見ていた地域にも、アメリカ軍はブルドーザーを使って軍道を建設して戦車を侵攻させた。最終防衛線の複郭陣地にも2月9日から攻撃が及んだ。4月1日に沖縄戦が始まったことを知った塚田中将らは、飛行場への総攻撃により玉砕するか、あるいは分散してのゲリラ戦に移るか検討した末、4月5日に集団を解散してのゲリラ戦を決断した。この時点で建武集団としての統制下に残っていた兵力は陸軍1200人、海軍2400人にまで落ち込んでいた。4月17日頃から小部隊に分散して行動を開始し、組織的戦闘力はほぼ完全に失われた。海軍部隊指揮官の杉本少将は6月に戦死した。この間、連合軍側は新たにアメリカ軍第11軍団が到着し、第14軍団と交替していた。
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