クラーク撲滅政策とウクライナ侵攻
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「クラーク撲滅運動」の記事における「クラーク撲滅政策とウクライナ侵攻」の解説
1917年11月、貧農委員会の代表者会議で、ウラジーミル・レーニンは、 「たかり屋のクラークを放置していると、ツァーリ(ロシア皇帝)と資本家は必ず復活する」と、クラーク撲滅の方針を発表した。 詳細は「ソビエト・ウクライナ戦争」を参照 同時期にレーニン政権は、ウクライナの支配を試みている。1917年11月の憲法制定会議の選挙ではウクライナ社会革命党が52%の票を獲得し、ウクライナ共産党(ボリシェビキ)は10%にとどまった。1917年12月16-18日のキエフのソヴィエト会議での選挙でもウクライナ共産党(ボリシェビキ)は11%しか獲得できず、事実上否認された。 これに対抗してボリシェビキは、赤軍が占拠したハリコフで自分たちのソヴィエト会議を招集したが、そのほとんどがロシア人だった。12月25日、ボリシェビキの傀儡政権であるウクライナソビエト共和国が樹立を宣言した。1918年2月12日、ハリコフのモスクワ傀儡政権が赤軍とともにキエフに侵入した。この際、ボリシェビキは10人1組の「食料派遣隊」を伴っており、これはレーニンの穀物を送れという命令に基づいて農村の穀物を没収する部隊だった。1918年2月18日から3月9日までにヘルソン州だけで1090車両の穀物がロシアに発送された。ドイツ軍、オーストリア軍が迫ると、ボリシェビキは退却し、4月にウクライナソビエト政府は解散した。 その後、第一次世界大戦でドイツ軍、オーストリア軍が敗北すると、1918年12月ソビエトは再び、ウクライナに侵攻し、1919年1月にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国樹立を宣言、その後の内戦で赤軍が勝利し、さらにポーランドとの講和も成立、1921年10月にはクリミア自治ソビエト社会主義共和国のロシア帰属が決定され、1922年12月にソビエト連邦が成立した。
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