クラーク撲滅措置
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共産党は、1929年12月29日に「一つの階級としてのクラークの撲滅」を発表し、富農の根絶を宣言した。 1930年1月4日の党中央委員会では、ヴォルガ下流・中流、北カフカースなどの穀倉地帯での集団化を1931年春まで(1930年秋までとも)、それ以外の地帯では1932年春まで(1931年秋までとも)に集団化を完了することが求められた。スターリンはクラーク撲滅は集団農場を作る上で不可欠だ、もちろん富農をコルホーズに入れてはならない、と指示した。 1930年1月30日の「大規模集団化地区におけるクラーク世帯の撲滅措置について」と題する決議が可決され、2月4日に発効した。 しかし、このときにはすでに「富農」とされる多くの農民は没落しており、わずかな農民が3,4頭の雌牛と2,3頭の馬を持ち、賃金労働者を雇っている農場は1%しかいなかった。 ある農民は、1929年に6人の家族と35エーカーの土地、2頭の馬、1頭の牛、1頭の豚、5頭の羊、40羽の鶏を持っていた。1928年に課された税金は2500ルーブリと穀物7500ブッシェルだったが、彼は納税できず、2000ルーブリの価値があった家を没収された。活動分子はこの家を250ルーブリで買い取り、農具はコルホーズに没収された。農民は財産没収後に逮捕され、納税拒否・労働者搾取および反政府運動への関与容疑で「富農」として告訴され、10年の強制労働が言い渡され、強制収容所へ連行された。また別の「富農」は財産を没収されたが、その子供たちが物乞いをして手に入れた食べ物は、もともと活動分子が子供の父親から奪ったものだった。この「富農」も強制移住となり、移住先で妻、子供たち、老母ら家族全員が死亡した。 1929年の冬から翌年にかけて続々と第一カテゴリーのクラークが逮捕され、キエフ刑務所では一夜に70人から140人が処刑された。翌1930年、ポルタヴァ刑務所では、7人用の監房に36人が詰め込まれ、20人用の監房に83人が詰め込まれ、2千人の囚人のうち毎日30人が死んだ。 1930年1月から2月にかけてクルィヴィ・リー州で4080の農場がクラークとして解体されたが、この農夫は病気の妻と五人の子供がいて、家にはパンの切れ端もなく、子供たちはボロギレを着て幽霊のようだったと活動分子が報告しているほど困窮していた。平均的な富農の収入は、富農を迫害した平均的な官僚の収入より低かった。 ある共産党官僚は、有罪を言い渡されたクラークと司祭の娘に対して、自分はソビエトの権力者だから判決を変更することもできると性行為を要求し、娘は自殺未遂に追い込まれた。 クラーク撲滅を指揮したのはOGPU議長のメンジンスキーであり、1930年には6万人のクラークを抹殺し、15万世帯のクラークを強制移住させ、さらに一般農民150万世帯を強制収容所に送り、200万人以上の農民の財産を没収した。歴史家ダニーロフは、500万人から550万人の農民が追放されたといい、さらに1000万人が追放されたとする研究もある。 クラークの子供への弾圧もすすめられた。1929年、穀物徴発隊は、徴発に応じようとしないクラーク(富農)家族に圧力をかけるため、富農の子供へのいじめを教育新聞で奨励した。地区委員が富農の子供にも穀物の種子を配布すべきだと発言すると、「富農の飢えた子供のことなど考えるな。階級闘争においては博愛主義は悪だ」と非難された。 「富農」とレッテルを貼られた親が死亡したあと生き残った子供たちは、教育を受けることも就職もできなかったが、こうした対応は、マルクスの「経済要因が意識を決定する」という唯物史観にもとづいていた。 レーニン未亡人クルゥプスカヤは、富農として両親が逮捕されたあと残された子供は泣いて町を彷徨うが、厄介ごとになるのを恐れて誰も引き取ることはしないと書いたが、党の方針が変わることはなかった。
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