人災として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 13:25 UTC 版)
ソ連史研究者の塩川伸明は、飢饉の原因はソ連政府による過酷な穀物調達の強行にあったことは明らかで、この飢饉は人災であったとする。ただし、ウクライナ人を抹殺する意図があったかについては(1997年時点で)証明されていないと指摘する。 ソ連史研究者の栗生沢猛夫もこれはあきらかに集団化にともなう人災であったという。 ウクライナ・ソ連史を専門とする歴史学者中井和夫も、ソ連政府が苛酷な穀物徴発と強制措置を実施したのみならず、飢饉を否定し、食料援助などの対策を取らなかったことが大きな犠牲を招いた原因であるのは疑いようがないとする。 ロシアの研究者ヴィクトル・コンドラーシンも、1932-1933年の飢饉はウクライナだけでなく、ソ連の穀物地帯を襲ったが、飢饉の根底には、スターリン体制の暴力的な集団化と強制的な穀物調達があったとする。また、R.デイヴィス、S.ウィートクロフト、M.レヴィン、S.メルル、L.ヴァイオラ、D.ペナー、奥田央、S.フィッツパトリックらもこの結論を支持している。コンドラーシンによれば、1931年と32年の気候は良好ではなかったが、当時の農業技術の水準が維持されていれば大規模な凶作を引き起こすようなものではなかった。飢饉の原因としては、集団化と穀物調達、クラーク清算、さらにコルホーズ体制確立のための飢饉に手を借りた農民への処罰、および農民の抵抗に対する苛烈な弾圧、伝統的な農村システムが破壊されていたために救済も不可能であったことなどがあり、したがって、1932-33年の飢饉はスターリン政府による「組織された人為的な飢饉」であり、ウクライナ・ロシアを含むソヴェト農民全体の悲劇であったとする。 飢饉はウクライナだけでなく、ロシアやほかの地域でも発生していたのであり、飢饉を意図していたかは疑わしいとする見解に対して、歴史学者ティモシー・スナイダーは、ウクライナ飢饉は「計画的な見殺し」だったとし、何百万人が餓えで死亡したのは、食料不足からではなく、食料の分配が適切に行われなかったためで、誰が食料を獲得できる資格があるのかを決めたのはスターリンだったとする。1932年にはロシアでも飢饉が発生したが、ウクライナへの対応は特殊でかつ徹底的だった。すでに大量の餓死者が報告されていたにもかかわらず、1932年11月からの徴発強化でスターリンは、ウクライナ農民から「余剰穀物」「肉(家畜)」の徴発を強化し、徴発に応じなかったものを「国家に対する裏切り者」として強制収容所に送り、さらに翌1933年初頭には、ウクライナの国境を封鎖し、逃亡農民を逮捕していった。 ウクライナの歴史学者スタニスラフ・クルチツキーはウクライナ飢饉を引き起こした原因はスターリンによる穀物の強制徴発をはじめとする農村政策にあったとする。
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