ウクライナへの再侵攻とポーランドの介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:22 UTC 版)
「ホロドモール」の記事における「ウクライナへの再侵攻とポーランドの介入」の解説
「ポーランド・ソビエト戦争」を参照 1918年11月11日に第一次世界大戦でドイツ軍、オーストリア軍が敗北すると、12月にウクライナの編入を目指すレーニン政権は再び、ウクライナ侵攻を開始し、1919年1月6日には、ハルキウでソビエトの傀儡政権ウクライナ社会主義ソビエト共和国樹立が宣言された。2月5日にソビエト軍がキエフを占領すると、2月11日にウクライナに対して、一人当たり消費量を130kgとし、それを超える「余剰穀物」の徴発を命じ、3月19日には82万トンの穀物の徴発を命じた。計画では1919年中に231万7000トンの穀物を徴発する予定であったが、実際に徴発されたのは42万3000トンにとどまった。また、農民には、すべての労働者への食料供給に応じられるだけの、十分な農産物の生産が義務化され、薪(たきぎ)の調達や除雪作業などの労働義務も課された。1919年1月の穀物徴発令で穀物の徴発が強化された。 こうしたボリシェヴィキの強硬策に対してウクライナでは反発が強まり、ウクライナでは1919年4月に93回、5月に29回、6月に63回の暴動が発生。4月から7月までに合計300回の暴動が発生した。 1919年8月、デニーキンの白軍の侵攻により、赤軍はウクライナ東部から撤退。その間、ドニエプル川西部にウクライナ人民共和国が再建された。1919年10月2日、モスクワはウクライナソビエト政府を解散。ボリシェビキは、ウクライナ支配の失敗の原因を、ウクライナの民族主義にみた。 1920年3月、ソビエトがウクライナを制圧したが、ウクライナの民族主義者ペトリューラと結んだポーランドは1920年4月25日に攻撃を開始し、5月7日にキエフを占領した。6月にソビエト軍が反攻し、ポーランド軍を敗走させ、さらにポーランド領ビャウィストクにポーランド臨時政府を発足させた。これに対してイギリス、フランスの援護を受けたポーランド軍が反撃し、ソビエト軍を撃退した。10月に休戦協定を結び、1921年3月にリガ講和条約を締結し、白ロシアとウクライナの西部がポーランド領となった。
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