ウクライナの鉄道史
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「ウクライナ鉄道」の記事における「ウクライナの鉄道史」の解説
ウクライナにおける最初の鉄道は、オーストリア帝国領であった西部ウクライナで建設された。最初の鉄道となったのは、1861年に開通したペレームィシュリ・リヴィウ間の路線であった。クリミア戦争が終結すると、ロシア帝国領の東部ウクライナでも1865年にオデッサ・バールタ間の路線が開通した。その後、ロシア帝国領下の路線は、1869年にバルタからクレメンチューク間、1870年にバルタからジュメールィンカ経由でキエフ間が延伸された。また、ロシア本土の路線との連結も進められ、1869年にはクルスク・ハルキウ・タガンローク間が、1870年にはクルスク・コノトープ・キエフ間が開通した。東西ウクライナの鉄道が連結されたのは1871年で、ヴォロチーシク経由でリヴィウ・ジュメールィンカ間が連結された。東西ウクライナの鉄道網の連結に併せて、中部ウクライナの鉄道網との連結も実現した。 19世紀末までにウクライナの鉄道網はほぼ完成した。その構成は、キエフや他のウクライナの中心的都市にではなく、支配国の中心都市(ウィーンおよびモスクワ)に向かっており、この時代のウクライナにおける帝国=植民地主義的支配を物語るものであった[出典無効]。 ロシア革命後、一部の鉄道路線が廃止され新しい路線区分に組み替えられるなどの改変が行われた。ロシア内戦の時期、またウクライナ・ソヴィエト戦争やポーランド・ソヴィエト戦争では、ウクライナの鉄道は大きな被害を受けた。鉄道網の発達していたウクライナでは装甲列車が有効に使用されたが、同時に軍事的に重要な戦略拠点と看做された各地の大駅ではクルートィ駅の戦いやキエフ=ヴォルィーンシクィイ駅の戦いのような激しい戦闘が行われ、鉄道機能が破壊された。ソ連の結成後はインフラの再建や新しい車両の製造などが積極的に行われ、ウクライナの鉄道はかつての機能を取り戻したが、それもまた大祖国戦争で破壊された。 戦後、クリミア半島がウクライナ共和国に組み入れられた。ウクライナにはハルキウ輸送機械製造工場(現V・O・マールィシェウ記念工場)やルハンシク・ディーゼル機関車製造工場(現ルハンシクテプロヴォーズ)のようないくつかの重要な鉄道車両工場が置かれ、主に蒸気機関車、のちディーゼル機関車が開発・製造された。また、ルハンシクテプロヴォーズでは近郊電車(エレクトルィーチュカ)として使用される電車の開発・製造にも力を入れている。 1991年8月24日にウクライナが独立すると、9月18日の国会の勧告によりウクライナの6鉄道の社長の下で6社のグループ化の検討が開始された。11月1日までにすべての課題に対する回答が出され、ウクライナの鉄道財産はひとつに統合されることとなった。1991年12月14日の内閣第356号政令「ウクライナの鉄道輸送の国家機関の設立について(Про створення Державної адміністрації залізничного транспорту України)」により、国営会社ウクライナ鉄道が設立された。初代の社長には、ボルィース・オルィーイヌィクが就任した。1992年2月12日には内閣政令第70号にてウクライナ鉄道に関する最初の法的規定がなされた。ウクライナ憲法の制定に関連し、1996年7月4日には国会で「鉄道輸送法(Закон України "Про залізничний транспорт")」が採択された。
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