狩野派の変革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 01:12 UTC 版)
18世紀半ば、南蘋派の流入が契機に本格的な民間画壇が育ち始めると、形骸化が進んでいた狩野派は飽きられ顧客が奪われ始めた。これに危機感をもった典信は、漢画の力強い描線を復活させることにより弱体化した狩野派の再建を目指した。こうした試みが将軍の好みと合致したのが、典信が寵愛を受けた理由であろう。絵画表現においてはやや戯画にはしり、典信の意図は完全に成功したとは言い難い面があるけれども、その意欲や地歩は後の木挽町家の絵師に引き継がれ、木挽町家が幕末まで奥絵師4家の中で最も繁栄することとなる。
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