秋田藩と亀田藩の断交
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「亀田藩士秋田退散事件」の記事における「秋田藩と亀田藩の断交」の解説
秋田藩はついに亀田藩との断交を決意した。1770年(明和7年)3月2日、秋田藩は115人の家臣団を率い、亀田藩家老に秋田藩の断交の方針を告げた。以後15年近く、亀田藩からの秋田藩への接触は困難であった。亀田藩主が再三詫びを入れても、秋田藩は許さなかった。 しかし、大正寺論争が亀田藩の敗訴となり、藩主・隆恭が幕府から差し控えを命じられた件が、和解工作を促す要因となった。亀田藩主が岩城隆恕へ代替わりした後、亀田藩から江戸の元光院を通して詫びを入れる形で、1784年(天明4年)12月に断交は解消された。この時、脱藩者から名指しで批判された家臣はまだ政務に従事していたが、彼らは主君の命によって行動しただけであるからと秋田藩へ慈悲の扱いを求め、家臣の名前を変える措置が取られた。
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