「柳都大橋」開通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 04:45 UTC 版)
橋梁部を含む秣川岸通交差点 - 宮浦中学校前交差点間は2002年(平成14年)5月19日、新潟みなとトンネルと同日に開通し、萬代橋をはじめとする新潟市中心部の橋梁の交通量分散に貢献した。また上流側の自歩道のエレベーターは、同年8月1日に供用を開始した。 暫定的に西詰側の取付道路となった秣川岸通(まぐさかわぎしどおり)は、かつて「他門川」という信濃川の分流が流れていた場所である。江戸時代中期、上流部から運ばれた土砂によって中州が生成され、現在の下大川前通付近の中州は「秣島」と呼ばれた。馬が食べる草が生えていたことから名が付いたと言われている。のちに下流側の「榛島」(はんのきじま)と陸続きになり、明治時代初頭には新潟県令に就任した楠本正隆の主導によって、開化の礎として宅地開発が進められた。その際に整備された街路が、現在の礎町通と下大川前通である。 他門川は第二次世界大戦中に川幅が狭められ、戦後は引揚者による商店街「鏡橋マーケット」が建てられた。だが1950年代に入り、新潟市周辺で地盤沈下が深刻化すると、他門川は流れがほとんど無くなり、それに加えて生活排水の流入などによって水質悪化が著しくなった。当時の市内中心部には他門川の他にも、広い範囲で堀が張り巡らされていたが、堀のある小路は道幅が狭隘で、自動車等の通行に障害が出はじめ、また1955年(昭和30年)10月1日未明に発生した新潟大火では消火活動の大きな障害となり、中心市街地が広範囲で罹災するなど防災上の問題も生じた。 新潟市では1964年(昭和39年)に第19回国民体育大会(新潟国体)の開催を控えていたこともあり、水質が汚濁した堀を淘汰して中心市街地のイメージ向上と防災機能の強化を図るため、堀の埋め立てに順次着手し、他門川も道路拡張のため1963年(昭和38年)に埋め立てられた。柾谷小路と秣川岸通が交わる鏡橋交差点は、この他門川に架かっていた柾谷小路の「鏡橋」に因んだものである。 1972年(昭和47年)、他門川流域跡の下流部には片側2車線ずつの市道2本が開通し、道路に挟まれた中州には市営の集合住宅「他門川住宅」が建設された。しかし2000年(平成12年)、万代島ルート線の整備に合わせて他門川住宅は撤去され、秣川岸通は柾谷小路から下大川前通まで直通する4車線の市道として再整備された。
※この「「柳都大橋」開通」の解説は、「柳都大橋」の解説の一部です。
「「柳都大橋」開通」を含む「柳都大橋」の記事については、「柳都大橋」の概要を参照ください。
- 「柳都大橋」開通のページへのリンク