柳生家再興・将軍家兵法指南役就任から大坂の陣とは? わかりやすく解説

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柳生家再興・将軍家兵法指南役就任から大坂の陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 01:31 UTC 版)

柳生宗矩」の記事における「柳生家再興・将軍家兵法指南役就任から大坂の陣」の解説

豊臣秀吉死後家康石田三成達の対立が深まる中、慶長5年1600年)に家康上杉景勝討伐のために会津向けて出陣すると、宗矩もこれに従軍する会津征伐)。その道中、下野国小山至って三成西軍挙兵し知らせを受けると、家康の命により柳生庄に戻り筒井氏大和豪族協力して西軍後方牽制を行う。同年9月13日、無事工作終えて家康元に戻り、続く関ヶ原本戦では本陣参加した戦後これらの功績によって、父の代で失領した大和柳生庄2,000石を取り戻すことに成功する。翌慶長6年1601年)には後の2代将軍徳川秀忠兵法剣術指南役となり、同年9月11日に1,000加増合わせて3,000石の大身旗本となった 慶長20年1615年)の大坂の陣では将軍秀忠のもとで従軍して徳川軍案内役務め秀忠元に迫った豊臣方武者7人(人数異同あり)を瞬く間倒したという。なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。

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