柳生家再興・将軍家兵法指南役就任から大坂の陣
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「柳生宗矩」の記事における「柳生家再興・将軍家兵法指南役就任から大坂の陣」の解説
豊臣秀吉の死後、家康と石田三成達の対立が深まる中、慶長5年(1600年)に家康が上杉景勝討伐のために会津に向けて出陣すると、宗矩もこれに従軍する(会津征伐)。その道中、下野国小山に至って三成ら西軍が挙兵した知らせを受けると、家康の命により柳生庄に戻り、筒井氏や大和の豪族と協力して西軍の後方牽制を行う。同年9月13日、無事工作を終えて家康の元に戻り、続く関ヶ原の本戦では本陣で参加した。戦後これらの功績によって、父の代で失領した大和柳生庄2,000石を取り戻すことに成功する。翌慶長6年(1601年)には後の2代将軍・徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり、同年9月11日に1,000石加増、合わせて3,000石の大身旗本となった 慶長20年(1615年)の大坂の陣では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を瞬く間に倒したという。なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。
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