尾張柳生家二代目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 06:13 UTC 版)
元和6年(1620年)、尾張柳生家の祖・柳生利厳の次男として誕生。初名は正厳。 母は正室と伝わる(島清興の娘・珠)。同母兄に清厳・異母弟 に厳包。 兄・清厳は病により家督が継ぐことが叶わぬと、島原の乱で戦死している。 19歳から29歳の10年間、尾張藩嗣子・徳川光友の兵法指南役として新陰流を伝授する。また尾張藩の寄合、供番、目付役にも就任している。 藩主からの信任が厚く、家声を汚さぬ働きと称賛されている。 寛永19年(1642年)弟の厳包を光友に御目見出させる。以降、光友から極意について問答があった時は自身ではなく弟の厳包を推挙したという。 慶安元年(1648年)、父・利厳が70歳で隠居すると、利方が家督を継承し、光友の指南は弟の厳包が引き継いだ。 翌慶安2年(1649年)、利方が立ち合いの元、利厳から一切の相伝免許を受けた厳包に道統を継がせる。 厳包の名声・腕前は利方を凌ぐほどであったというが、厳包との不和で一門を去る者もおり、利方には人望があったという。
※この「尾張柳生家二代目」の解説は、「柳生利方」の解説の一部です。
「尾張柳生家二代目」を含む「柳生利方」の記事については、「柳生利方」の概要を参照ください。
- 尾張柳生家二代目のページへのリンク