諸国軍の情勢
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1903年陸軍法に基づき、ブルガリア軍は「行動軍」と国民民兵の2種類に分けられ、その主力は9個歩兵師団と1個騎兵師団だった。ブルガリア軍はヨーロッパ諸国の軍とは違う編成をしていた。すなわち、1個歩兵師団は3個旅団で構成されており、1個旅団は2個連隊、1個連隊は4個大隊、1個大隊は6個中隊、1個中隊は250人だった(250人は一般的な中隊よりも大きい構成である)。これに1個独立大隊、2個大型砲兵連隊、1個騎兵連隊が加えられ、合計としては1個師団が25個歩兵大隊(ただし一般的な大隊よりも人数がかなり多い)と16個騎兵中隊で構成され。当時の軍で一般的な9個大隊×2個師団よりも人数が多かった。これは1913年時点のギリシャ軍とセルビア軍と比べても同じだった。その結果、第一次バルカン戦争の開戦時点で動員されたブルガリア軍の人数が599,878人だったにもかかわらず、師団の数は9個しかおらず、ブルガリア軍の「師団」は軍団に近い実力を有した。第一次バルカン戦争の戦中と戦後における戦術上の必要性から、第10師団が第1と第6師団からの2個旅団ずつと新兵で構成された3個独立旅団で創設されたが、ブルガリア軍の「重い」編成は残った。一方、ギリシャのマケドニア軍も同じく9個師団にもかかわらず118,000人しかいなかった。また、大砲の数も各国軍の実力に影響を与えた。ギリシャ軍9個師団は大砲176門を、セルビア軍10個師団は大砲230門を保有していたが、ブルガリア軍は1,116門を保有しており、これはギリシャ軍の6倍、セルビア軍の5倍にあたる。 第二次バルカン戦争中のブルガリア軍の実力については論争がある。第一次バルカン戦争の開戦時点でブルガリア軍は599,878人を動員した(うち366,209人が行動軍、53,927人が追加部隊、53,983人が国民民兵、94,526人が1912年と1913年の徴兵からの新兵、14,204人が義勇兵、14,424人が国境守備軍だった)。そして、戦争中に14,000人が戦死、19,000人が病死したため、合計で33,000人が失われたが、それを補うために主に占領地から6万人を徴兵、うち2万1千人ずつでセレス、ドラマ、オドリンの合計3個独立旅団を編成した。動員が解除された兵士がいないことは知られている。しかし、ブルガリア軍の首脳部によると、6月16日時点では兵士492,528人と士官7,693人が編成されている(この数字は上記の3個旅団を含む)。これは第一次と第二次戦争の間で99,657人の差を示している。一方で負傷者を含む損害を引き、新兵を足すと合計で少なくとも576,878人となる。また、戦争に必要な物資も不足しており、一例としてはライフルの数が378,998丁しかなかった。 ブルガリア軍の配置はヴァシル・クチンチェフ(英語版)率いる第1軍(英語版)とラトコ・ディミトリエフ(英語版)率いる第3軍(英語版)が旧セルビア・ブルガリア国境に、ステファン・トシェフ率いる第5軍(英語版)がキュステンディル一帯に、スティリアン・コヴァチェフ(英語版)率いる第4軍(英語版)がコチャニとラドヴィシュ(英語版)地域に配置され、ニコラ・イヴァノフ(英語版)率いる第2軍(英語版)が対ギリシャ軍に配置された。 セルビア王国軍は348,000人であり、うち252,000人が戦闘員で3個軍10個師団に分けられた。主力はヴァルダル川沿いとスコピエ近くに配備されていた。名目上の総指揮官はペータル1世であり、ラドミル・プトニクが参謀総長と実際の総指揮官を務めた。 ギリシャでは国王コンスタンティノス1世が軍の指揮を執り、ヴィクトル・ドゥスマニス(英語版)中将が参謀総長を務めた。 モンテネグロはマケドニア戦線にヤンコ・ヴコティッチ将軍率いる1個師団(1万2千人)を派遣した。 ルーマニア王国はバルカン半島最大の軍を保有していたが、1878年のルーマニア独立戦争(英語版)でオスマン帝国とたたかって以来、戦闘を行っていなかった。平時には士官6,149人と兵士94,170人を有しており、バルカン半島のレベルから考えて装備はそれなりによかった。すなわち、ルーマニア軍は主にクルップ社が製造した野砲126門、榴弾砲15門、山砲3門を保有していた。動員をかけた場合、ルーマニア軍は5個軍に分けられる417,720人を招集できた。うち約8万人が南ドブルジャの占領を目標とし、25万人がブルガリアへの攻勢を目標とした。
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