諸国民のヨーロッパ連合
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「2009年欧州議会議員選挙」の記事における「諸国民のヨーロッパ連合」の解説
イタリアの国民同盟は諸国民のヨーロッパ連合に参加する国内政党でもっとも多くの欧州議会議員が所属していたが、2009年3月29日にシルヴィオ・ベルルスコーニ率いるフォルツァ・イタリアと合流して新党「自由の人民」を結成した。自由の人民はフォルツァ・イタリアを引き継いで欧州人民党に参加しており、2009年の選挙で自由の人民は欧州人民党グループとして候補者名簿を作成することになっていた。つまりこれは会派から国民同盟が離脱することと同じであり、諸国民のヨーロッパ連合は選挙後の議員数を減らすということが見込まれた。国民同盟の一連の動きは国民保守系や欧州懐疑系の諸政党の力をそぎ、またより穏健的な中道右派への転換や、欧州人民党への参加を促すことになった。 国民同盟と会派を主導していたアイルランドのフィアナ・フォイルは、2009年4月16日に欧州自由民主改革党への参加を決め、また欧州議会でも欧州自由民主同盟グループに合流した。長らく欧州統合を支持してきたフィアナ・フォイルはヨーロッパ規模での連携のあり方に不満を持っており、かつて党首を務めていたバーティ・アハーンは、ほかの諸国民のヨーロッパ連合参加の右派政党とは距離を置いていた。2004年の欧州議会議員選挙後の会派再編で、フィアナ・フォイルは欧州自由民主同盟に加わり、またかねてより欧州自由民主改革党への参加を模索してきた。アハーンの後を受けて党首となったブライアン・カウエンは2009年2月27日に、フィアナ・フォイルが欧州自由民主改革党と欧州自由民主同盟に参加することを表明し、この発表に対して2日後に党内から賛同する決定がなされた。フィアナ・フォイルの欧州議会議員団代表であるブライアン・クロウリーはこの決定を批判し、会派を変えることはフィアナ・フォイルの立場や影響力を失うことになるとした。つまりクロウリーは諸国民のヨーロッパ連合の会派共同代表として多くの権限を持っていたが、フィアナ・フォイルが欧州自由民主同盟に移ると、それらの権限を失うこととなるとしたものである。 諸国民のヨーロッパ連合で3番目に多く欧州議会議員を出していたのはポーランドだった。しかしこのうち、自衛とポーランド家族同盟は2007年の国内議会選挙で議席をすべて失っていた。 諸国民のヨーロッパ連合は欧州民主主義グループの議員が主導する新会派に脅かされており、残りの議員が新会派に移ることが懸念されていた。実際にポーランドの法と正義は諸国民のヨーロッパ連合を離脱し、新会派に合流した。 諸国民のヨーロッパ連合の消滅の危機は独立と民主主義グループにも影響を与え、独立と民主主義もまた諸国民のヨーロッパ連合に残る各党の合流を求めていた。イタリアの北部同盟やデンマーク国民党は独立と民主主義への合流を選び、2009年の選挙後に新会派自由と民主主義のヨーロッパを発足させた。他方で独立と民主主義に参加していたオランダのキリスト教同盟は欧州保守改革グループに参加することになった。
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